細野晴臣の轍

YouTube世代に再発見された音楽的冒険

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テキスト:原雅明

昨年、アメリカの音楽レーベルLight In The Atticから、1973年の細野晴臣のソロデビュー作『HOSONO HOUSE』をはじめとする全5タイトルがリイシュー(再発売)された。

かねて、細野の音楽へ関心を持つ海外の音楽ファンは多かったが、今回のリイシューを機に一気に再評価が進み、2019年5月から6月にかけて、ニューヨークとロサンゼルスを回るアメリカツアーも決まっている。

細野は、ロックを題材にアメリカの音楽を遡(さかのぼ)ったかと思えば、1980年代にはYMOと歌謡曲にも関わり、さらにアンビエントミュージック/環境音楽にもいち早くアプローチをした。そして、先頃には『HOSONO HOUSE』を再構築した新作『HOCHONO HOUSE』をリリースしたばかりだ。

60年代末から現在までの日本のポピュラー音楽の歴史を振り返ると、さまざまな局面に登場するのが細野晴臣である。

そのことに気がついた海外のリスナーたちも、細野の音楽を熱心に追い始めている。背景には、近年、欧米の音楽ファンの間で高まっている、ジャパニーズミュージックそのものへの関心もあるだろう。

かつてアメリカの音楽に魅了され、それを追い求めるようにスタートした細野晴臣の音楽が、逆に今、求められている状況だ。そこにはどんな理由があるのだろうか。YMOやアンビエントで世界とつながっていた時代と現在では、何が異なるのだろうか。

そんな問いをきっかけにした、細野晴臣へのインタビューを届けよう。 

やみくもに好きだから、どんな音楽にも首を突っ込んできた


—Light In The Atticが細野さんの作品のリイシューに向けて動いているという話は、2015年初頭ごろから私も耳にしていました。その頃、レーベルの方と直接日本で会ってらっしゃいますよね?

会ったね。そのくらいの頃だったんだ。

—細野さんの音楽をレーベルの皆が好きで、ぜひ世界に紹介したいという熱い思いが、彼らにはあったようです。これ以前にも細野さんのところには、海外からのアプローチはあったのでしょうか?

いやいや。特になくて。すごくパーソナルにドイツのテクノミュージシャンとやったりとか、90年代や2000年代の初頭はそんなようなつながりでしたね。

—海外でどういう評価をされているのかはご存じでしたか?

全然分からなくて。何がいいんだか(笑)。あんまりびっくりはしないけど、アメリカにもマニアがいるんだなっていう印象ですね。

—遂にアメリカが細野さんを発見したんじゃないかと思いますが。

だんだん分かってきましたけどね、最近。世界的にもそういう風潮があるって。

—今、日本の音楽の再評価が著しいですね。そのことは実感されますか?

さすがに最近はそういうリアクションがたくさんあるので、周囲の人が教えてくれたり。ヴァンパイア・ウィークエンドが(カセットブックの)『花に水』っていう、本当に大昔のインストをサンプリングしていたり。そういうことがあると「なんでだろう」とは思う。日本自体に埋もれていた音楽がいっぱいあるので、彼らが注目しているんだろうなと思います。

—それが今のこの時期にというのは、なぜだと思われますか?

なんだろうねえ。やっぱり情報の環境が変わったことかな。ネットの世界で。YouTubeもすごく有効なメディアだと思うんですけど。あとは、音楽産業が確立化されて、そこに乗ってこない音楽っていうのはいっぱいあるわけですけど、そういうことにみんな聴き耳を立てるようになってきたのかなと思います。

—細野さんは、YMO時代には海外にも行かれ、リリースもされ、向こうの反応も見てこられましたが、その当時と今の状況にはどんな違いがありますか?

ずいぶん違う印象がありますね。YMOの時はアルファレコードがすごく戦略的に考えていたり、お金がやっぱりかかったり、ビジネスの側面が強かったんですけど、今はそういう時代ではないですね。お金はかからないし、情報もすんなり伝わっていく。日本でも聴いてくれる人はそんなに多くなくて、あんまり人のことを考えないで作っていたけど、それはちょっと今変わってきつつありますね。ちょっと意識しないといけないのかなとかね、あんまり得意じゃないんですけど(笑)。

—細野さんの海外のプレスリリースには、「日本では出る杭は打たれる傾向があると聞きました。 細野晴臣は突き出ている杭だと思います。 そしてそれを維持したのです」というヴァン・ダイク・バークスのコメントが載っていました。

そんなこと書いていたんだ。ちゃんと読んでないや(笑)。ありがたいことです。

—そして、Light In The Atticが60年代以降の日本の音楽のコンピレーションを企画した時に、フォークやロックでも、シティポップでも、そして環境音楽でも、中心的な役割を果たした人物が細野さんだと気が付き、細野さんが現在の日本のポピュラー音楽の基盤を作ったと発見したんだそうです。

そうですか。なんか申し訳ない。まあ、人材が少なかったからね。

—音楽のスタイルは変わっても、ずっとそこに何か通底しているものは細野さんの中であると思うんです。それについて聞かせていただくことはできますか?

いや、自分でも分からないんですけど、音楽は子どものころから人一倍好きなんですね、多分。それに尽きるんです。普通に音楽が好きだと思っていたら、ほかの人はそうでもないっていうのに気が付いたのが中学のころで。それ以来、あまり人に押し付けることはやめるようにしていたんです。本当にやみくもに好きで。どんな音楽にも首突っ込むっていうのはそのせいですね。

楽に作っちゃいけないような気がした

—『HOSONO HOUSE』はホームレコーディングで、基本的には全て細野さん自身が録音するスタイルでした。やはり人に押し付けないという考えから来たのでしょうか?

そうですね。もともと、音楽が自分の脳の中にあるので、それとの対話で作ってきた。第三者はあまり関係ないと思っていたんですよ。作った曲を最初に聴くのは自分だし、自分がOKを出せば世の中に出る。いつも自分との対話をして作ってきた。へんてこりんな音楽もいっぱい聴いていて、それをみんなに聴かせたら全然ダメだったっていう経験がある。変人扱いされたっていうか。あんまり人には押し付けないっていうのは、そういうことですよ。

—だからこそ、そのあとにアンビエントや環境音楽をひとりで作ることにもなったのでしょうか?

そうですね。あの頃が一番内省的になっているんですけど。だから環境音楽って外にある環境ではなくて、自分の中の環境に入り込んでいくわけですよ。でも、内面に入り込んでいくといつの間にか外に出ているという感じがあるんです。当時は、世界中のアンビエントをやっている人たちと繋がっている感じがしていたんですよ。

—ひとりで作っているけど、海外のアーティストたちと繋がっている感覚があったと。

そうなんです。サンフランシスコのスペースタイム・コンティニウム(イギリス出身のミュージシャン、ジョナ・シャープのソロユニット)とか、みんな誇りに思ってやっているんだなって知って。ビル・ラズウェルが来日した時に「会いたい」と言われたのが、90年代の終わりかな。そのときも、彼が「自分はアンビエントだ」と宣告するんですよ。それで一緒にレコード(『 Interpieces Organization』)作ることになったんです。

—『HOSONO HOUSE』の話に戻りますが、海外プレスに「ジャパニーズ・アメリカーナ」という形容があったのが印象的でした。

なるほど。まあそう言われても抵抗できない。今や、ああいうアメリカの世界はないといってもいいんじゃないかなと思っているんです。だから、アメリカ人のそういう音楽好きを見ていても日本の人みたいですから。オタクっていうか。

—昔はオタク的な人も日本にしかいない感じがありました。

そう。世界的にも広まって。それは20年前くらいからそうでしたけど、どの国に行ってもそういう人がいて、同じようなオーラを持っている。

—それはやはり情報が広がったということなんでしょうか?

それだけかな。よくわからないですね、僕も。例えば、シカゴから来て日本にずっと住んでいるジム・オルークは、すごく優秀な音楽家だと思うんですけど、彼と最初会った時に、自分の音楽をいっぱい聴いてくれているんですよ。いろんなことを知っていて。しかも、挙動不審(笑)。彼を見て、「あ、日本人だ」と思った。そういう人がいっぱい世界中にうようよいる。

—『HOCHONO HOUSE』を今作ったのは、海外でのリイシューの影響もあったのでしょうか?

それは多分あるんだろうと思いますね。でも、自分でも10年くらい前から作り直そうなんていう話を誰かにしていたらしくて。覚えていないんですけど(笑)。結局、自分がまいた種で、やってみたらすごく難しくてね。後悔していましたけど、出来上がってよかった。

—作るにあたって、特に留意したことはあったんでしょうか?

一番最初に決めたのは、ひとりで全部やろうということだけで、あとはやみくもに始めたんです。おそらく、いつもやっているバンドのメンバーたちとやったら、もっと早く楽に作れたのかもしれないんですけど、楽に作っちゃいけないような気がしてね。すごく苦労しましたよ。

—ひとりで作ることにこだわったのはなぜですか?

当時のデモテープが残っていて、それを聴くと、バンドで演奏する前のデモなんでひとりでやっているわけですよ。そのアレンジが『HOSONO HOUSE』に入っている感じと違うものなんです。おそらく、セッションでバンドとやると変わっちゃうわけですよ、ヘッドアレンジで。ですから、原形を改めて聴くと全然違うなと思って。それを今やりたいなっていうことはありましたね。全部じゃないですよ、何曲かはそうだったんです。

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遺伝子を受け継ぐつもりでやり続けている

—まもなく、ニューヨークとロサンゼルスで公演がありますね。どんなステージになりそうですか?

例えば、ロンドンやブライトン、香港でもそうだったんですけど、いつも日本でやっているスタイルでそのままやったんですね。MCも英語と日本語を交えた感じで。それでも、今の人たちは何でも受け入れてくれるんです。日本みたいなんですよ。なんだか大阪でやっているような気持ちになって(笑)。しかし、ニューヨークはそうはいかないかも、とか。いろいろ考えちゃいますが、結局できること以上のことはできないんで、いつもと同じですね。

—ロンドンなどでは、細野さんのファンが観に来ている感じだったのでしょうか?

そうだったと思います。若いスケボーの連中とか、昔の『Sports Men』(アルバム『フィルハーモニー』収録曲)っていう曲の歌詞に反応してて、すごく好きみたいでした。

—マック・デマルコが『Honey Moon』(『トロピカル・ダンディー』収録曲)をカバーしていましたが、印象は?

まあ、なんか日本の人みたい(笑)。同じアレンジでやっているし。

—細野さんがアメリカの音楽に影響を受けて作り始め、リスナーとしても色々な音楽を掘ってこられた。その作り手とリスナーの両方の視点があることが、海外にも影響を与えているのではないでしょうか?

だとしたら、うれしいですね。特に最近はアコースティックでブギーをやったりして、ラジオでは古い音楽ばっかりかけている。そういうのを若い人が聴いてくれるようになって、古い音楽を新鮮に聴くようになってくれる。大勢じゃないですけど、時々そういうファンに会うんですよ。

そうすると、自分はこういうことをやりたかったんだな、と思う。今は本当に、途切れてしまって、誰も聴かない音楽がある。宝の山のような20世紀の音楽があるのだから、誰か継承しないと絶えちゃうと思って。その遺伝子を受け継ぐつもりでやり続けているんですね、40年ぐらい。だから、それが海外の人にも伝わったらうれしいなと思いますね。

おそらく10年前に僕がアメリカで演奏したら、テクノ好きが集まっていたと思うんですよ。YMO世代がね。そうしたら多分、(テクノではなくなっている)僕の演奏を聴いた観客はブーイングで帰っちゃったと思う。でも、今ならできるなと思うようになりましたね。

—細野さんは、デイジーワールド・ディスク(1996年に自身が立ち上げた音楽レーベル)では若いアーティストをフックアップしていました。今もひとりで作っている若いアーティストの音楽を聴かれますか?

10年ぐらいなにも聴いていなかったんですけど、最近また聴くようになりました。人の音が気になり出して。そういうことが、10年に1回ぐらいあるんです。

—今がそういう時期だと。

そうなんです。アルバム(『HOCHONO HOUSE』)を作るとき、客観性を持とうと思っていろいろ聴き比べたりしたんです。前のアルバム(『Vu Jà Dé』)はそんなことしなかったので、今回は変わり目なんでしょうね。

最近は、15、6歳の男の子の音楽で面白いのが出てきた。KEEPONという子で、大滝詠一の大ファンでね。すごく面白いんですよ。

—細野さんがデビューした当時、自分の音楽を聴いてもらう努力をした記憶はありますか。

努力は一切しなかったですね。もともと、ヒッピーに憧れてドロップアウトしたような気分でやっていましたから。親とも断絶しているし、上の世代とも全然違うんですよね。だから、孤立しているのは当たり前だと思っていたし。

特に、はっぴいえんどは誰が聴いていたのか知らない。レコード出してもそんなに売れないわけですよ。世間的には認知されていないに等しいわけです。だから、それも終わったことだと思っていたら、終わっていなかったという。

—細野さんの中では、アンビエントやエレクトロニックミュージックは一回終わったものなのでしょうか?

いや、そんなことはないですよ。全然終わらないですよ。全ては終わらないです。一直線じゃないっていうことだけは確かだな。あっちこっちうろうろしているだけなんですけど。線を引いてここからここまでっていうことじゃないですね、人生っていうのは。

—『HOCHONO HOUSE』もある意味、終わらずに戻ってきた作品です。曲順も逆さまになっていますし。

そうなんです。逆転しているような感覚もあるね。ベンジャミン・バトン(『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』)だっけ? このまま赤ちゃんになっちゃうんじゃないかなって(笑)。


細野晴臣の公式サイトはこちら

In cooperation with 檸檬
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インタビュー:EGO-WRAPPIN'
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