選曲家、DJの方々が世界中でかけてくれた
—『うたかたの日々』や『案山子』のリイシュー以前から、海外での再評価の流れを感じていたのでしょうか。
急にではなくて、じわじわという感じですね。この10年くらいの間に1ミリ1ミリという感じできて、今の状況になった。1980年代始めの頃は逆に、僕はその2枚の作品などを持って向こう(海外)に住んでプロモーションをしていたわけですけど、全然手応えがなくてね(笑)。
—なぜこの10年で再評価が進んだのだと思いますか?
1つには、いろいろな選曲家、DJの方々が世界中でかけてくれたことがありますね。だから、ずっと廃盤にならずにこれているのだと思います。
—ジャズやフュージョンというジャンルのくくりにおいての再評価ではないことも、特徴的に思います。アピールしているところが違うのでしょうか。
何なんでしょうね。質感というか、そういうものなのかもしれないですね。逆に、1980年代の音に、僕はちょっと引いてたというか。
—それは、例えばデジタルシンセの質感などに対しての違和感でしょうか。
そうですね。マライアのころは教授(坂本龍一)とも一緒にやってますけど、YMOのように僕らも新しい質感に飛びついて、クラフトワークとかも辿っていました。しかしYMOと同じになるわけにはいかない(笑)、というのはありましたね。
—先頃ヨーロッパツアーがありましたが、実際に向こうに行き、反応はいかがでしたか。
強烈でしたね。僕とMax ※を使う國本怜くんといろいろ練ってやって、『案山子』の曲のアレンジや新曲を演奏したんですけど、大歓声でしたね。割と静かな曲も多いんですけど、それでも大歓声で。
※ Max:多くのエレクトロニックミュージックやメディアアートのアーティストが使用する、プログラミング・ソフトウェア。
—清水さんは1985年から91年にかけて、パリとロンドンを拠点に活動していましたが、日本を離れようと思うきっかけは何だったのでしょうか。
それまでいろいろやってきて、ちょうど『案山子』と『うたかたの日々』で区切りもついたので、ちょっと日本から離れて、全体的な、大きな意味での世界の空気に触れたいというのが一番大きかったですね。
—その時期はいま振り返ってみていかがですか?
元々、音楽に関しては嗜好(しこう)が海綿体のようにできていると思っているんですよ(笑)。本当にいろいろな見方をしないとやっていけない性分なので、いてもたってもいられなくなって行っちゃったんでしょうね。