強い思いでやってきたものが、今、繋がった
—『Ryuichi Sakamoto: CODA』の監督であるスティーブン・ノムラ・シブル氏からは、当初、どのような内容でオファーが来たのですか。
2011年の原発事故(福島第一原子力発電所事故)を受けて、脱原発の声を上げようと仲間のミュージシャンたちと『NO NUKES』という音楽フェスティバルを2012年に立ち上げました。最初はその『NO NUKES』を撮りたい、という話だったのです。それがそれだけで終わらず、僕が被災地域に行ったりだとか、色々しているところを撮りたいと。次第にこちらからも、今度ここに行くから撮っておくと面白いんじゃない?と伝えるようになったりもして、ずるずると続いていったという感じです。
—撮影の終了時期は決まっていなかったのでしょうか。
何も決まっていなかったです。スティーブン・ノムラ・シブル監督もどこで終わりにしようか、まとめようかと探っていたころに、僕が病気になってしまって。色々な活動がストップしてしまう。それが2014年のことで、当初アルバムを出すつもりでいたから、監督はそのアルバムの制作をドキュメンタリーのゴールにしようと考えていたと思います。それが病気によって一時中断してしまいました。
バケツに当たる雨音を聴く坂本龍一。映画『Ryuichi Sakamoto: CODA』より
—結果として、『async』の完成が帰結となったわけですね。映画の冒頭、陸前高田市での演奏シーン※ があります。同じく劇中の中盤の、アメリカ同時多発テロ事件後のニューヨークについての回想シーンでは、数日間にわたって街から音楽が消えたことが語られていました。陸前高田市でのコンサートにはどのような心境で臨んだのでしょうか。
※2012年12月12日に開催された『坂本龍一 Trio Tour Japan & Korea チャリティコンサート陸前高田公演』
あのシーンの時点では、震災から1年以上が経っていました。震災が起こってすぐに、被災地に行って元気づけようとするミュージシャンもいたんですよ。しかし、周りにいたそういう人たちを僕は止めました。邪魔になるからと。災害があったときに必要なのは、水と食料と寝るところ。それらが確保できるようになり、落ち着いてきてはじめて、人間は音楽などを必要とするわけですから、それまでは行くべきではないと。
もちろん、ぼくがコンサートを行った時点でも、仮設住宅住まいの人や、避難生活をしている人もいたわけですから、いろいろな思いが充満していました。でも、いざ演奏となったら、考え過ぎると演奏できなくなってしまいますから、音楽のことだけを考え、良い演奏をすることに集中していました。コートを着たまま演奏していますが、本当は手袋もしたかったくらい。会場のみなさんも寒かっただろうと思います。