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Photo: Richard Heathcote/Getty Images
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海外メディアが「東京五輪」を再検証、最も逆風が吹いたオリンピック

オリンピック史上初のコロナ禍開催となった『東京2020』の全貌に迫る(前編)

翻訳:: Genya Aoki
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※本記事は、Delayed Gratification Issue#44に掲載された『Running on empty』を翻訳、加筆修正を行い、転載。

『東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会』(以降『東京2020』)は、日本を再生し、停滞している経済を活性化させるはずだった。しかし新型コロナウイルスの大流行が世界を襲う中、『東京2020』が実現するかどうかさえ疑わしいものになった。

東京を拠点に活動しているライターのキンバリー・ヒューズ(Kimberly Hughes)とORIGINAL Inc.のエディトリアル・ディレクターであり、スロージャーナリズム誌『Delayed Gratification』のエディターも務めるマーカス・ウェブ(Marcus Webb)が、記憶に残っている限り最も驚くべきスポーツイベントの舞台裏に迫る。

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2013~2021年 歓喜のブエノスアイレスから静寂の国立競技場へ

2013年9月7日、ヒルトン ブエノスアイレスの会場で「東京」という名前が読み上げられると、日本の代表団は喜びを爆発させた。普段はストイックな黒いスーツの男たちが飛び跳ねたり、力強く抱き合ったり、うれしさのあまり涙を流す人もいた。

日本の首都でもその時、歓喜の声が上がった。日本時間の午前5時20分に発表された結果を見るために、何千人もの人が徹夜でその結果を心待ちにしていたのだ。

第二次世界大戦で壊滅的な打撃を受けた日本が再起するきっかけとなった1964年のオリンピックと同様に、2020年のオリンピック・パラリンピック開催が日本に変革をもたらすと多くの人が感じていたのだろう。

2011年3月に東北地方を襲った地震、津波、原子力発電所の事故により、約2万人が死亡、6000人が負傷、47万人が避難を余儀なくされた中で、「東京で開催する」というニュースは、一部の人々にとって擦り切れた神経を癒やすものだった。

『東京2020』は「復興五輪」と名打たれ、被災地の「復興の炎」として福島で聖火リレーが開始されることになった。当時の首相である安倍晋三は、ブエノスアイレスで「正念場を迎えている。皆さまの期待に添えるよう、精一杯頑張りたいと思います」と誓った。その歓喜の時、東京大会がどのような結果になるのかは誰も想像でき得なかったに違いない。

東京オリンピック8日目、代々木公園付近には長蛇の列

東京オリンピック8日目の2021731日、国立代々木競技場からすぐの代々木公園沿いの道路には、長蛇の列ができていた。しかし、人々が並んでいた理由は、世界のエリートアスリートの競技を見るためではなく、政府が運営するコロナウイルスのワクチン接種センターに入るためだ。

東京のほかの通りにはほとんど人の姿はない。どの店にも手指消毒液のディスペンサーが置いてあり、ダイナミックなナイトライフで有名なこの街の夜は、どこにも見いだすことができなかった。

東京都知事の​​小池百合子は、記録的に増加していた新型コロナウイルスの感染拡大をなんとか食い止めるために、大会開催直前にパンデミック発生以来4回目となる「緊急事態宣言」を発表。レストランやバーは20時までに閉店するよう指示した。

しかし、この状況に多くの地元住民が憤慨する。彼らは、自分たちがほとんど楽しむことができないイベントに税金が投入されている間、家に閉じこもっていなければならないことに不満を漏らした。

また大会が、日本に新たなコロナウイルス変異株をもたらすきっかけになるのではないかと恐れられていた。政府はワクチン接種の遅れで厳しく批判され、開会式のわずか2週間前に自国の観客を大会から締め出す決定をしたのは、日本の接種率の低さが原因だと多くの人が考えていたのである。

厳重に警備されバリケードで囲まれた競技会場は、不気味なほどの静寂に包まれていた。観客がいないことを補うために、群衆の歓声を流して静けさを和らげようとしていたところもあった。

そもそもオリンピックは1年前の2020724日に、パラリンピックはその1カ月後に開催される予定だったはず。しかし、コロナ禍で各国が撤退し、国際オリンピック委員会(IOCパラリンピック委員会(IPCへの圧力が高まったため、20203月に両大会の開催を2021年まで延期すると発表した(ただ、大会公式グッズのブランド変更の手間を省くため、『東京2020』という名称はそのまま使われ続けた)。

多くの人が大会の中止は免れないと考えており、大会を開催する責任者の中にもそのように考える人はいた。

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2020~2021年「オリンピックはいらない」

招致活動から閉会式まで『東京2020』に関わった国際パラリンピック委員会広報部長のクレイグ・スペンス(Craig Spence)は、「私たちは常に、大会が開催されると信じていると公言していました」と回顧する。「しかし、『どうやっても開催できない』と考えていた、暗い日々もあったのです」。

2013年にアルゼンチンの首都で歓喜の声を上げた代表団のメンバーの一人だった『東京2020』組織委員会の高谷正哲(たかや・まさのり)は、「世界的なパンデミックの中で大会を開催するには、ゼロから独自のロードマップを作成する必要がありました」と話す。「このこと自体が『東京2020』のレガシーのようなものです。コロナ禍に大会を開催するには、ルールブックを書き換える必要がありました」とスペンスは振り返る。

「大会の開催権を獲得すると、各組織委員会には100冊以上の技術マニュアルのライブラリーが与えられます。宿泊施設やセキュリティーなど、全ての分野が網羅されているものなのですが、パンデミック時の大会運営について書かれたマニュアルはありません。

私たちは、人々が自国を離れた瞬間から日本を離れる瞬間まで、全ての要素を再検討しなければなりませんでした。そして、時間は止まることなく刻々と進んでいました」。

新型コロナウイルスの感染者数も増加していた。スペンスや高谷らが『東京2020』に向けて準備しなければならなかった16カ月の間に、日本中で感染者が急増。大会延期が発表された週に確認された国内新規感染者数は89人だったが、9カ月後である20211月の第1週目には3248人になっていた。

新たな感染者が出るたびに、またほかの国で新しい変異株が出現するたびに、世界中から何万人もの人々が東京に集まるイベントに対する反発はさらに強まった。

パンデミック前から行われていた反オリンピック運動

オリンピック反対運動は、パンデミックが起こるずっと前から始まっていたものだ。東京開催が発表された直後には、オリンピックの五輪を放射能汚染のシンボルに変えた画像などがネットで拡散されていた。2013年のブエノスアイレスの会場で安倍が福島原発事故の状況は「コントロールされている」と宣言していたのにもかかわらず、同時に汚染水が太平洋に流れていたため、特に痛烈なジャブになっただろう。

また「反五輪の会」のような抗議団体は、新しいテロ対策法の名目で警察の取り締まりが強化されることや、スタジアム建設のための木材として熱帯雨林が伐採されることへの反対など、大会に対する強い懸念を表明していた。

このようなグループは反資本主義的なメッセージを発信することが多く、日本では「過激派」として扱われていたが、コロナウイルスの感染者数が急増するにつれ、その姿勢に共感する人は増加していた。20215月の朝日新聞のある世論調査では、オリンピック開催に反対する人は80%を超えた。

特に医療従事者からの反発が強く、立川市のある病院では窓に「医療は限界 五輪やめて!」と書かれた看板が掲示。また2021年初頭には、主催者側の人員による女性蔑視発言、過去の障がい者いじめ、ホロコーストに関するジョークといった一連のスキャンダルが発覚し、次々と主催者が解雇されるなど、反対の声は高まっていった。

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主要メディアや多分野の学者も味方に

スポーツとジェンダー、セクシュアリティー研究を専門としている関西大学の准教授である井谷聡子は、以前から反オリンピック運動に関心を持っていた。しかし、『東京2020』に向けた反対運動はこれまでとは異なり、デモ参加者が実際に大会の方向性を変える可能性を秘めていると感じていたようだ。

「日本国民の大多数が、国家的な大イベントに『ノー』と言ったのは、本当に久しぶりのことです」と井谷。「反オリンピック運動は、大会開始まで主要メディアやさまざまな分野の学者まで味方につけていました」。

開会式を1週間後に控えた7月16日、『東京2020』本部前に数十人の抗議者が集まった。これまでの抗議活動やデモ行進と同様に、彼らは警察官に取り囲まれながらも、「国民の命はオリンピックより大事」「オリンピックは貧困層を殺す」などのメッセージを示した看板を掲げる。メガホンを使って「オリンピックはいらない」「IOCは地獄に堕ちろ!」と唱えていた者もいた。

組織委員会の幹部であったスペンスでも、大会の中止を求めていた声に理解を示す。「市民の声がどのようなものかはよく分かっていました。しかし、私たちは皆の安全を守るための非常に優れた計画を立てていたのです。未検証でしたが、自信を持っていました」。

スペンスはまた、20209月に安倍が退陣した後に首相に就任した菅義偉(すが・よしひで)に対して、大会の中止を求める政治的圧力がかかっていることを懸念していた。「首相の支持率は日に日に下がっており、『彼ら(政府)は耐えられるだろうか』と。メディアからの絶え間ない憶測も恐ろしいものだった。どうせ中止になるなら、我々がこんなことをしてどうするのか、と仕事をしながら頭を悩ませていたのです」。

中編に続く

東京2020オリンピック・パラリンピックを振り返る……

  • Things to do

緊急事態宣言下、2021年8月24日開幕の東京2020パラリンピックが、12日間にわたる全競技を終えて閉幕した。同一都市での2回目となるパラリンピック開催は史上初、日本が獲得したメダルは金13個、銀15個、銅23個、合計51個。この数字は2004年のアテネ大会時に次いで2番目で、大躍進を遂げたと言えよう。

  • Things to do

2ドイツテレビ(ZDF)プロデューサーとして、『東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会』(以降『東京2020』)の現場から自国へ向け発信してきたマライ・メントライン。彼女は、この国家的事業をどう受け止めたのか。同大会における文化的価値にフォーカスした総評を寄稿してもらった。

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  • スポーツ
  • スポーツ

『東京オリンピック・パラリンピック』は、ある種の「落胆」から始まった。新型コロナウイルスが流行する中、スポーツイベントを推進することは、本来ならば興奮と祝福に満ちた機会を無駄にしてしまうのではないかと感じられたからだ。しかし、大会が盛り上がるにつれ、恐怖と不安の時代に力強い光を放つことが証明されたと言えるだろう。

ここでは、東京パラリンピックの6つの印象深いハイライトを紹介する。

  • スポーツ
  • スポーツ

正直なところ、この困難な状況で東京オリンピックを開催するのは、簡単なことではなかった。選手たちは新型コロナウイルスの影響で、制限のある中トレーニングに励んだ。そして、コロナ禍に大規模な世界的イベントを開催することが適切であったかどうかについては、いまだに多くの議論がなされている。しかし、悲惨な状況が続いた1年半を経て、オリンピックは必要な気晴らしを与えてくれたとも言えるだろう。

今年のオリンピックは、開催に向けて長い期間準備をしてきた人々にとって思い描いていたものとかけ離れていたが、それでも多くの点で驚くべきことがあった。例えば、ヒディリン・ディアス(Hidilyn Diaz)がフィリピン史上初の金メダルを獲得したり、エレイン・トンプソン(Elaine Thompson Herah)が100メートル走で金メダルを獲得し世界最速の女性になったりと、画期的な出来事が起こった。

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  • Things to do
  • シティライフ

今年の『東京オリンピック・パラリンピック』は、アジアの都市で初の2回開催、史上初の延期、そして初の無観客など、初めてのことがたくさんある。2020年以前に誰もが予測していた状況ではないが、ようやく2021年7月23日に東京オリンピックの開会式を迎えることができた。

開会式には、オリンピックの名誉総裁に就任した天皇陛下が登場。VIPを除く観客の入場は禁止されていたが、隈研吾が設計した新国立競技場で打ち上げられた花火が、東京の夜空を眺める人々にイベントの開始を知らせた。

式典の冒頭では、新型コロナウイルスの大流行で失われた命と、2011年の東北地方太平洋沖地震と津波の犠牲者への追悼が行われ、ほろ苦い雰囲気に包まれる。しかし、国際的なアスリートのパレード、日本を代表するパフォーマンス、息を飲むようなドローンの飛行などにより、イベントは急速に盛り上がっていった。

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