岡田利規(劇作家、演出家)×菅尾友(演出家)
Photo: Kisa Toyoshima
Photo: Kisa Toyoshima

STAGE CROSS TALK 第3回(後編)

岡田利規(劇作家、演出家)×菅尾友(演出家)

Hisato Hayashi
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タイムアウト東京 > カルチャー > STAGE CROSS TALK 第3回(後編)

テキスト:高橋彩子

異ジャンルの表現者が対談する『STAGE CROSS TALK』シリーズ。劇作家、演出家の岡田利規と、ベルリンを拠点にヨーロッパでオペラを手がける演出家の菅尾友が登場する第3回の後編では、初めてオペラ演出に挑む岡田が、菅尾とオペラについて語り合う。

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オペラにおける「音楽と演技」

―岡田さんは、全国共同制作オペラ 歌劇『夕鶴』で初オペラ演出に挑まれています。今、オペラの面白さをどう感じていますか? 

岡田僕は基本的には、物語というものと無関係であり得るのが、音楽の面白いところだと考えています。例えば能の形式を変えて作った『未練の幽霊と怪物』にも音楽がありましたが、それは、上演の時間の質とかパフォーマンスの質そのものの条件になるような音楽でした。国立競技場の建設現場の場面では、工事の音に聞こえるような音が入っているとか、そういう物語に沿う部分もあったけれど、それはちょっとしたスパイスみたいなもので、全体では音楽として自立していたんです

ところが、オペラではとにかく音楽がとても物語っていて「この音にはこの意味が」みたいなことがすごくある。演劇では主に演者の演技がないとそこに現れないものが、音楽ですでに現れているとしたら、演者はそれやらなくていいんじゃないかと僕は思うわけですよ。同じ情報がなぞられても意味がないから。であれば、どうしたら面白いものになるんだろう、と考えてしまうんです

菅尾:残念ながら僕は『夕鶴』を、観たことは何回かあるけれどきちんと勉強したことないので、自分の中に解釈を特に持たないのですが、作品によって、どちらもあり得るのではないでしょうか。つまり、台本に書いてあることを音楽も表現しているけど演技でもやりたいこともあるし、音楽が表しているから演技ではやらなくていいと判断することもある。

 僕は最終的にはお客さんに物語がちゃんと分かることが重要だと思っていて、そのときに、音楽を皆さんが知っている前提にはしたくないんですね。だから、初めてそのオペラを観る人にどう伝わるかを考えたときに、「この場合はこっちで表現することが必要だな」と思うか、あるいは「これはもう十分表現されてるから舞台上では別のことをやって大丈夫かな」と思うかは、臨機応変と言うか、その音楽をどう感じるか次第という気がします

岡田:例えば、ある音形が要所要所で繰り返し出てくる場合、お客さんによって、「あ、また出てきたな」と思える人もいるかもしれないけど、それだけだとそう思えない人もいますよね。そのフレーズが出てきた時、あるビジュアルというか、舞台上で起こっている状況とカップリングされたものが繰り返されれば分かると思うのですが、そういうのはどうしているんですか?

菅尾:絶対逃してほしくない場合は、1回目に出てきた時に印象づけるよう、照明なり演技なりを組み立てれば、次に伝わる可能性が高まるでしょうね。ただ、僕は基本的には、音楽だけが1回出て2回目にまた出た時、「さっきも出てきたメロディーです」と言ってもそれはこっちの主張に過ぎないので、そういう作り方はあまり信用していないかな。

岡田:それは、曲を知っている人前提になるから?

菅尾:はい。そういうのは苦手というか、僕は別のアプローチを選びますね。オペラ作品をよくご存知な上で演出家独自の切り口を楽しみに公演を観に来てくださるお客様はたくさんいらっしゃるし、その期待に応えたいと思う気持ちも少なからずあるけれど、僕は通の人に向かって「こんな意外なことをやりましたよ」とドヤ顔で見せることより、まずは初めて観る人、それこそ子どもでも理解できて楽しめるような舞台を目指しています。ドイツでワーグナーの『神々の黄昏』を演出したときもそうでしたよ。

菅尾友が演出したヴュルツブルク・マインフランケン劇場の『神々の黄昏』 ©Nik Schölzel/Mainfrankentheater Würzburg

『神々の黄昏』は『ニーベルングの指環』四部作の中の4作目ですが、僕が手がけたプロダクションは、全作の連続上演ではなく、『黄昏』5時間半だけの単独上演でした。

『指環』の場合、作品上重要な事物や概念、キャラクターなどを表す「ライトモティーフ」と呼ばれるメロディー的なものが頻繁に出てきますが、全体から独立した舞台では「このメロディーは前作でこういう意味合いで出てきたから、その流れで解釈されるべき」といった文脈的な縛りにとらわれず自由に考えることができて、これがよかった。ワーグナーファンからは「間違いだ」と叱られるかなとも思ったけれど、結果的には好評でした。

逆に、例えば「剣のライトモティーフ」が聴こえる箇所で剣の演技をする、というようにストレートな演出をした箇所もあります。音楽と芝居がハマるという意味では、英雄気分の子役がかっこいいトランペットのメロディーに合わせて高く剣を掲げるのは気持ち良かった。その辺り、演出的なオプションを探る作業が楽しかったし、ワーグナー協会の重鎮が感銘を受けたと言ってくれたのと同時に、この舞台が初めてのオペラ鑑賞だったという少年も楽しんでくれていたのが、とてもうれしかったんです。

決めるのは演出家? 指揮者?

オペラの音楽が語ることをどう捉えるにしても、演出家は演劇とは違う形で音楽に向き合うことになります。 

岡田:そうですね。でも、音楽がここまで物語のことを考えてくれているんだったら、むしろ楽ですよ。あるパフォーマンスの時間をデザインするというのは演出が行う重要なことの一つですけど、オペラの場合、それは音楽がやるから僕は関わらない。そのことを、僕はすごく今回楽しみにしているんです。

菅尾:オペラを手がけたことのない演劇畑の人がオペラに対して持つイメージとして、それを言われることが多いんだけれども、僕はそこにちょっと疑問があります。実は演出家が音楽のタイミングとかを決めるところって、すごくたくさんあると思っていて。

もちろん、指揮者の協力のもとにということにはなってくるんだけれど、ここはもっと時間が必要だとか、ここは時間はいらないからぱっといきたいとか、そういうことは演出家としてビジョンがあるならやっていいこと、というよりも、やらなくてはいけないことな気がします。

岡田:そうですか! それは演出家が決めるんですか?

菅尾:指揮者が演出の稽古に参加していて一緒に感じて考えてくれることが理想だとは思います。場合によっては指揮者が演出の意図に同意しないこともあるかもしれませんが、それでも例えば、この登場人物たちの関係性からするとここでさらに「間」が必要だと考えた場合に、音楽的な理由が提示できれば提示すればいいし、そうでなくても「これが欲しいんだけど何ができる?」と相談することで音楽的な解決法を提案してくれる場合もあると思います。

岡田:なるほど。多分一番良いのは、そのコンセプトを指揮者と全にシェアした上で指揮者がそこの時間を決めるということでしょうね。オペラのためのワークショップや打ち合わせを通してわかってきたのは、オペラは音楽として独立しているというより、そこで上演されるものとして書かれている点。音楽として必要だからということ以上に、ドラマに対して必要だという理由で、音がたくさん書き込まれている印象です。 

菅尾 僕が一度経験した、かなり極端な例を挙げると、友人の作曲家による新しい曲で舞台を作っている時に、演技でもっとこうしたいから時間が欲しいと言ったら、指揮者が「いや、楽譜にはそういう指示はない」と、楽譜通りであることを頑なに貫こうとする人だったんですね。それで困って作曲家に相談したら、彼は「舞台のために書いた曲なのだから、Tomoが芝居のために必要だと解釈するように使ってくれ。そもそも楽譜に全ての情報なんて書ききれない」と言ってくれ、稽古場まで来て指揮者を説得してくれたんです。

書いてある情報から舞台として立体化していくという作業段階においては、作品の核と思う部分をリスペクトしながら、現場で作っている人たちがクリエーティブに判断し、取捨選択していくことが不可欠だと僕は考えています。

岡田:実際、作曲家はその人の想像の範囲で上演をイメージして音を付けるけれど、そうじゃない風にも上演できるのに、と思うことはありますよね。

菅尾:あります。オペラとして何ができるのか、音楽をどれだけ自由に芝居の方に寄せられるのかということを一緒に考えてほしいと僕は指揮者に言うし、そうすると、オペラを振る指揮者も物語を表現したいという思いを持っている方々なのだから、協力してくれるはずです。

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劇中劇としての『夕鶴』とカンフーのオペラ

―最後に、お二人の今後の活動を伺おうと思います。まず岡田さんは、先ほどから話題に出ている『夕鶴』が控えています。

岡田:僕が選んだ作品ではなくいただいた話なのですが、原作が戯曲の日本語のオペラだし、出演者も多くないので、自分にとってはとっつきやすい。それに、モーツァルトはあちこちで壊されまくっていますが、『夕鶴』は壊されたことがないイメージだから、「じゃあ最初に壊せるじゃん」と。

菅尾:『夕鶴』は、作曲の團伊玖磨さんが演劇版『夕鶴』の稽古場に立ち会っていらして、山本安英さんら当時の役者たちのセリフのイントネーションをそのまま音にされたそうですね。なかなか難しい作品なのだろうなと思います。

岡田正直なところ『夕鶴』は、僕が観客だったら、『夕鶴』はすごくオールドファッションな、「今どきそんなのよくないですか、もう」と思う作品です。そんな僕に対して、「いや、実はそんなことはないんだ」という風にしたいということが、まずありきですね。

オペラ『夕鶴』舞台美術の模型(提供:東京芸術劇場)

―その手段の一つとして、劇中劇形式を取り入れる?

岡田:そうですね。僕は演劇を作るとき、劇中劇という手法がすごくしっくりきます。それは、劇中劇という構造にすることで、その空間に演劇が成立しているということを、観客が見ることができるからなんですよね。

そこで上演されるフィクションと、観客である私とのダイレクトな関係だと、またま「すごく好き」とか「何これ、全然興味ない」とかそういう不確定なものになる。でも劇中劇だと、そこで上演されているフィクションが自分と直接関係するわけじゃなくて、その舞台上にいる観客との間で成立しているものだから、「いや、俺も大人だからそんな子どもだましみたいなものはちょっと」みたいに感じずに観ることができるわけです。

という風に考えると、劇中劇というのは、演劇が成立する可能性をすごく広げる、あるいは打率を上げるものだと僕は考えています。つまり今言ったことを論理的に考えると、僕が『夕鶴』はダイレクトに成立するものだと思っていないということがバレちゃうわけですけど(笑)。 

菅尾:それは、オペラに何か、せりふや人物を付け足すということですか?

岡田:ああ、それはしないです。ただ単に、今の私たちと『夕鶴』が一番ガチに出合えるよう、障害になりそうなものは退けるとか、上がる関係になるものは取り込むってことはしているんですけど、テキストも楽譜も変えません。

―時代を現代に設定し、舞台上に現代と非現代の人々を置いて、その人たちが夕鶴をどう受容するかとかそういう形で描くということでしょうか?

岡田:僕は今回、何らユニークな解釈をしていません。これは資本主義批判の話ですが、そのために、資本主義に汚される手前の、「プレ」状態の人、つまり前近代の、そして汚れない白い女性……、ツルも白いけれど、白無垢(むく)的な、「汚れていない」人が、資本主義によって汚されるという批判の仕方はつまらん、と思っているんです。

簡単に言うと、プレではなくてポスト、処女よりもビッチの方といった「乗り越えた」人が資本主義を批判していく方が、批判として強いでしょう、と。で、資本主義批判というのは全然、我々の問題なんですよ、いまだに。だから『夕鶴』は今の私たちにとって大事な物語で、僕はだからこの物語を大切に演出しようと思っていますが、多分見た目は全然そうなりません。

―楽しみです。菅尾さんは今秋以降にどのような作品を演出されますか?

菅尾:2021年8月に東京芸術劇場で上演した子ども向けのオペラ『ゴールド!を、別のプロダクションとして、フランス語でフランス人の歌手と一緒にフランスで上演します。春にルクセンブルクで1回やったプロダクションですが、その時はドイツ人の歌手でドイツ語でしたから、同じ美術でもまた新しいものになるかと思います。12月には香港へ行って、子ども向けというか家族向けの新作で、カンフーを題材にしたオペラをやります。 

岡田:カンフーを題材にしたオペラ?

菅尾:僕は最初『西遊記』を題材にしたいと希望したのですが、香港側の提案で『カンフー・パンダ』みたいな世界観の中、カンフーをやっている少年少女とラーメン屋の少年少女が出会って、という作品です。あとは、2022年2月にルクセンブルクで新作オペラ『アトランティス』、それから5月にスイスのチューリヒでハイドンのオペラ『月の世界』……。

岡田:演出家って、そんなに何本も、よくやりますよね。僕はテキストを書くのも一緒にやるから、そうじゃないという意味で「演出家って」と言ったんですけど。

菅尾:僕が特別多いってことはないと思います。

岡田:分かります。もっと多い人もいるのは知っています。でも、それでも多いじゃないですか。

菅尾:そうですね。そもそも稽古場が好きですし、稽古のない時期が続くと鈍っていないか心配にもなります。生活もあるし(笑)。

『月の世界』は去年春、『アトランティス』は今年春に実現できてなかった演目で、どちらも延期になっていましたが、今度こそ上演を目指します。その先には、未発表ですがドイツの歌劇場でモーツァルトの『魔笛』も予定されています。こちらは自分にとってある意味、原点的な作品なので、これまでの一つの集大成と思って気合を入れて準備をしています。パンデミック下ではありますが、クリエーティブな活動を続けていきたいですね。

岡田利規

1973年神奈川県横浜市生まれ、熊本県熊本市在住。演劇作家、小説家、チェルフィッチュ主宰。

従来の演劇の概念を覆す活動は国内外で注目されている。2005年『三月の5日間』で第49回岸田國士戯曲賞を受賞。同年7月『クーラー』で「TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD 2005ー次代を担う振付家の発掘ー」最終選考会に出場。2007年デビュー小説集『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(新潮社)を発表し、2008年第二回大江健三郎賞を受賞。

2012年から岸田國士戯曲賞の審査員を務める。2013年初の演劇論集『遡行 変形していくための演劇論』、2014年に戯曲集『現在地』(ともに河出書房新社)、2020年に戯曲集『未練の幽霊と怪物 挫波/敦賀』(白水社)を刊行。2016年からドイツ有数の公立劇場ミュンヘン・カンマーシュピーレのレパートリー作品演出を4シーズンにわたって務め、2020年『The Vacuum Cleaner』が、ドイツの演劇祭Theatertreffenの「注目すべき10作品」に選出。

2018年8月にはタイの小説家、ウティット・へーマムーンの原作を舞台化した『プラータナー:憑依のポートレート』をバンコク、12月にパリ、2019年6〜7月に東京で上演し、2020年2月に第27回読売演劇大賞 選考委員特別賞を受賞。2020年戯曲集『未練の幽霊と怪物 挫波/敦賀』(白水社)を刊行し、2021年2月に『第72回読売文学賞 戯曲・シナリオ賞』を受賞。

2023年にウィーン芸術週間委嘱作品として、チェルフィッチュと現代音楽の作曲家の藤倉大、ウィーンの現代音楽アンサンブルKlangforum Wienとのコラボレーションによる新作音楽劇を発表。11月にワークインプログレス公演が行われる。

https://chelfitsch.net/profile/

1979年北海道札幌市生まれ。幼少期をアメリカ、オランダ、ドイツなどで過ごし、4歳からバイオリンを始める。18歳でオペラの演出活動を開始した後、ニナガワ・カンパニー・ダッシュ、東京・新国立劇場、ベルリン・コーミッシェ・オーパーなどの演出スタッフを務める。

国内外の演出家のもとでアシスタントや再演演出を務めた後、現在はフリーの演出家として劇場、フェスティバルにおいて活動中。『神々の黄昏』『魔笛』『イドメネオ』『フィガロの結婚』ほか多くのオペラ作品、『夏の夜の夢』『ハムレット』『ロミオとジュリエット』などの舞台を演出。

国際基督教大学卒業。2008年文化庁新進芸術家海外留学制度派遣生、2009年ワーグナー国際財団奨学生、2013年五島記念文化賞新人賞を受賞。

2018年ドイツ・ヴュルツブルク歌劇場で演出した『ニクソン・イン・チャイナ』が、バイエルン放送 (Bayerischer Rundfunk) が発表する 「年間ベスト10プロダクション」に、また2019年の『神々の黄昏』が同BR「最優秀オペラ演出—バイエルン州特選3作品」に選出されている。

2021年8月に、『TOKYO MET SaLaD MUSIC FESSTIVAL 2021「サラダ音楽祭」』メインプログラムの一環として、子どものためのオペラ『ゴールド!』(日本語上演)を演出、東京芸術劇場にて日本初演した。

http://tomosugao.com/

高橋彩子
舞踊・演劇ライター。現代劇、伝統芸能、バレエ・ダンス、 ミュージカル、オペラなどを中心に取材。「エル・ジャポン」「AERA」「ぴあ」「The Japan Times」や、各種公演パンフレットなどに執筆している。年間観劇数250本以上。第10回日本ダンス評論賞第一席。現在、ウェブマガジン「ONTOMO」で聴覚面から舞台を紹介する「耳から“観る”舞台」、エンタメ特化型情報メディア「SPICE」で「もっと文楽!〜文楽技芸員インタビュー〜を連載中。

 http://blog.goo.ne.jp/pluiedete

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