「男になりたい。なぜならば、能楽師になりたいから」
観世流シテ方能楽師の鵜澤雅(うざわ・まさし)を父に持ち、3歳で初舞台を踏んで「能にどっぷりハマっていた」という久。
「人前で自由に歌ったり演技したりするのがとても苦手な子どもだったんです。でも能には型があって、まず型をしっかり取り入れれば、あとは自由にできる。それならできたんです。私が考えるに、日本の文化は結果ではなく経過を大事にするので、そういうところも合っていたのかもしれません」
第二次世界大戦後、能楽界も女性に門戸を開き、今年で現役最高齢の98歳になる山階敬子(やましな・けいこ)をはじめ、プロの女性能楽師も少ないながら存在していた頃。父は弟子の発表会にそうした女性能楽師を呼ぶことはあったものの、娘がプロを志すことには反対だった。
「父は能楽の世界で非常に苦労した人。ましてや女である私にはあまりに過酷だから、賛成できなかったのだと思います。小学5年生の時、学校で将来何になりたいかという作文の課題が出て『男になりたい。なぜならば、能楽師になりたいから』と書いたのが、私にとって自分の考えを表明した最初。どれほどの思いだったかを先生が理解してくれなかったことに反発し、気持ちはより強くなりました」
「船弁慶」の子方を勤める小学6年生頃の鵜澤久(Photo:前島写真店)
13歳でシテ(主役)を初めて舞い、能の修業に打ち込む久。その頃、銕仙会の女性能楽師がいて、シテを2番舞い、後見もこなしていたことと、銕仙会の長である観世銕之丞家に女性が内弟子になっていたこと。その2つを見て、思いはますます強くなった。大学は東京藝術大学邦楽科で能を学び、大学院の修士課程まで進んだ。
「学生運動が盛んな時代で、大学に来ている生徒はあまりいませんでした。私もどこかに反骨精神は持っているけれど、素晴らしい囃子方の先生方が教官として見えていて、生徒が来なくても待っておられる。こんなもったいない話はないからと、6年間休まず通って教えていただきました。それはとてもいい勉強になりましたね」
折しも、父も所属する銕仙会から一人のスターが演劇界を席巻していた。銕仙会の長である七世観世銕之丞の長男・観世寿夫(かんぜ・ひさお)。国内のさまざまな演劇人と交流するのみならず、フランスの名優ジャン=ルイ・バローと親交を持つなど、53歳で早世するまで能の世界にとどまらない活躍をしていた人物だ。
「若い頃に寿夫先生の舞台と出会ったことは大きかったです。目からうろこというか、ゾクゾクとしました。私の原点です。当時、寿夫先生の舞台を観ようと、反体制的な若い学生も押しかけて能楽堂は満席で、立ち見も出て。その舞台がとにかく刺激的だったから、ぜひ稽古してほしい、と思ったんです。本来、私は父が銕仙会なので、男だったらそこに入るのが自然なのですが、女だったばっかりに父の反対にあって」
最後は根負けしたように、父が久を七世観世銕之丞の前に連れて行き、銕仙会に入ることが決まった。25歳の時だった。