梅若玄祥と野村萬斎が語る、能と狂言の世界

新作能「マリー・アントワネット」、新作狂言「鮎」にそれぞれ主演する2人に聞く

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能楽堂に行ったことはあるだろうか。主に能や狂言が上演されるその劇場は、極めてシンプルで特殊な空間だ。「橋掛かり」という通路から現れた演者がたどり着く「本舞台」は30平方メートル余りの広さで、後ろに松の絵が描かれた板があるのみ。しかしそこはあらゆる世界、あるいは広大な宇宙になる。そんな能楽堂にデビューするなら、親しみやすい題材による新作能と新作狂言が相次いで上演されるこの12月は絶好の機会だ。ここでは新作能『マリー・アントワネット』主演の梅若玄祥のインタビューと、新作狂言『』主演の野村萬斎の記者会見でのコメントをもとに、それぞれの公演を紹介。さらに玄祥から、初めて能楽堂へ行くタイムアウト東京の読者に向けてアドバイスももらった。

テキスト:高橋彩子(演劇・舞踊ライター)

梅若玄祥が悲劇のフランス王妃を演じる能『マリー・アントワネット』

能狂言の世界では、現代劇のように頻繁に新作が上演されるというわけではない。しかし今年の12月は、能と狂言の両方で話題の新作が初演される。

まず注目したいのは、能楽師で人間国宝の梅若玄祥が演出・主演する新作能『マリー・アントワネット』。脚本・演出は、宝塚歌劇団屈指の名作『ベルサイユのばら』を初演から手がけている演出家・植田紳爾だ。フランス革命で断頭台の露と消えた王妃マリー・アントワネットの霊が、恋人フェルゼンの前に現れるという複式夢幻能(※1)の形式での上演となる。

「僕は宝塚が好きで『ベルサイユのばら』もほとんどの組を観ています」と玄祥は言う。「10年ほど前からマリー・アントワネットを演じてみたいと思っていました。アントワネットは、自分が悪いことをしたのかどうかも分かっていない、自然児のような存在だという気がする。つまり、理屈のないところで生きている人間。僕もそうなんです。僕を観ても悲劇という感じはしないかもしれないけれども(笑)。アントワネットには、そういうところで生きられる幸せと、それゆえの悲劇との両方を感じてきました。役者はこういう存在を表現したいものなんです。そしてこの題材には、フランス革命という時代背景も手伝い、色々な人の葛藤が描かれている。宝塚を観ていても、宮廷側も民衆もそれぞれが『これが正しい』と思っていて、それらがぶつかり合うから哀(かな)しいんですよね。演劇では様々な役をアントワネットの周りに配するわけですが、能ならば、1人で演じることができます」

かけ離れているようにも見える宝塚と能の世界。しかし、玄祥は共通項もあると指摘する。

「植田先生は(けんらん豪華な)宝塚の演劇は「足し算」で、シンプルな能は「引き算」だとおっしゃる。確かにそうですが、宝塚でもすごい方は引き算の演技をなさいます。逆に能では、我々は子供の頃から引き算の演技というものを学びますが、僕は祖父や父から『足してもいい。いくら足しても引き算のものをお前に教えてあるから大丈夫だ』とも教わりました。その父にさえ僕は『オーバーだ』『やり過ぎだ』と言われたけれど(笑)。引いて引いて引き算ばかりだと、何のインパクトもないものになってしまうし、若い頃はやり過ぎるくらいでないと将来的にきちんとした引き算にならないと思うのです」。 

今作では、アントワネットの霊は生きているフェルゼンの前に現れ、その生涯について語っていく。ということは、舞台は18世紀末になるのだろうか。 

「台本には詳しく書いていませんが、亡くなってすぐではないかと思います。フェルゼンはアントワネットへの想いを断ち切れず、ゆかりの場所に行き、彼女の霊に出会う。これは能にはよくあることなんです。その場所がどこなのかについては、今回の能の冒頭で、宝塚の『ベルサイユのばら』に出てくる歌『青きドナウの岸辺』の歌詞が謡の節付けで流れますので、宝塚をご覧になる方ならだいたい想像がつくでしょうか(笑)。

衣装は能の装束で、どこかにアントワネットらしさも加えたいとは考えていますが、そもそも能とは『なに人』かではなく『人間』を表現するもの。能には日本の題材も中国の題材もインドの題材もあり、身にまとう衣装は全部同じです。それも、日本(の日常)にはない形で身に付けている。そういうところが能はうまく考えられていますので、今回の題材も成立するはずです。現在考えているラストは、アントワネットが自分の罪とほかの人々の罪を一身に背負ってその罪の重さで死んでいく案と、明るく清らかに昇天していく案の2つ。いずれにしても、彼女が王妃ではなく、1人の人間として死んでいくことは間違いありません」

能に描かれる人間の魂のドラマを、常に全身全霊で演じる玄祥。「命を削っているようなところはなきにしもあらずですね」と言うその舞台を、ぜひ目に焼き付けてほしい。

文明批評的な目線も込める、野村萬斎の狂言『鮎』

次に、作家の池澤夏樹が執筆し、狂言師の野村萬斎が演出・補綴(ほてい)・主演する狂言『鮎』。海外の民話を基に池澤が書いた短編小説を狂言化するという。狂言といえば喜劇の世界であり、一般的に笑いのイメージが強いが、萬斎は会見で「狂言は笑いのためだけにあるのではなく、人間を活写するための一つの方法論。今回も、ただのファルス(笑劇)ではなく、池澤先生なりの文明批評的な目線が入るので、狂言の作品の種類、範囲を示せる作品作りができるのではないかと思います」と語った。

『鮎』記者会見 提供:国立能楽堂

物語は、清流 手取川のほとりで鮎釣りをする才助の前に、喧嘩をして泥まみれ血まみれとなった男の小吉が現れるところから始まる。顔を見るとその人の性格や将来が分かってしまう才助は、釣りたての鮎を小吉に振る舞い、この地で暮らしてはどうかと提案するが、小吉はその勧めに耳を貸さず、都会へ出て出世魚さながらの成功者となっていく。ある日、才助は小吉のもとを訪れるが、そこには思いがけない顛末(てんまつ)が待ち受けており…。鮎役も実際に登場するという。賑やかな、しかしどこか人間のはかなさをも感じさせる幻想的なドラマとなりそうだ。

新作狂言の初演にあたり、萬斎は古典との違いを「どの程度、新作にし、どの程度、狂言らしくするかの兼ね合いは難しいところ。古典狂言をベースにしすぎると、やっている回数も洗練度も違う古典の方がいいということになりますし、あまり突飛でもこれは狂言なの?となる」とした上で、「(従来の狂言の登場人物である)太郎冠者は『なんとしたものであろうぞ、いや、良い仕様がある』と、1秒も考えずに短絡的な発想で行動し、失敗するというパターンですが、今回の『鮎』では、小吉の出世への思いが長い時間をかけて形になっていく。人間の人生を考えるという意味では能的ですし、戦争も描かれます。また、清流にしか住めない鮎の存在から、観ていて自然との共生にも考えが及ぶのではないでしょうか。どこか狂言をはみ出すような作品になるのかなと思いますが、それでいて狂言らしい爽快感も含む作品にできればと考えております」と抱負を述べた。

玄祥は能と狂言それぞれの魅力について「狂言で描かれるのは、観客の方たちに近い、日常的に起こり得ること。たとえ大名が登場しても、偉い人物というより、何か失敗しそうな人物で、会社の上役のような感覚で観ていただけます。今の人々やその生活と密着しているから面白いのですね。一方、能では、人々が積み重ねてきた歴史の中で自分と合致するような出来事、例えば人を好きになるとか別れるとか、そういったことが抽象的に描かれます。能と狂言はお互いにないところを表現しているから一対なのです」と語る。能楽堂へ初めて足を運ぶタイムアウト東京の読者に向けて、こんなアドバイスももらった。

「僕は時々オペラを観るのですが、最初は全く分からなかったんですよ。言葉も日本語ではないし、日本語のオペラでさえよく分からないことが多くて。で、イタリア人の友人に、母国のオペラを聴いて分かるのかと聞いたら、『分からない。でも、何度も重ねて観るうちに分かるから、分かり方が深くなるんだ』と言うのです。それを聞いて『なるほど』と腑(ふ)に落ちました。僕は能を演じる側なので、観る方の立場はよく分からなかったんだけど、能も段階を踏んで深く知っていただいた方が、その人のものになる。だからすぐに頭で理解しようとせず、声が良いとか、歩き方がすり足で綺麗だとか、何でもいいので、ご自分の感性にぴたりと合うところを見つけてもらえればと思います。そこから、じゃあ次はこれを観てみようという風に、色々な演目を観ていただけたら嬉しいですね」

※1
霊的な存在が主人公となり、前場と後場で姿を変えて登場する能

『マリー・アントワネット』の詳しい情報はこちら
『鮎』の詳しい情報はこちら

高橋彩子

舞踊・演劇ライター。現代劇、伝統芸能、バレエ・ダンス、 ミュージカル、オペラなどを中心に取材。『The Japan Times』『エル・ジャポン』『シアターガイド』『ぴあ』や、各種公演パンフレットなどに執筆している。年間観劇数250本以上。第10回日本ダンス評論賞第一席。
http://blog.goo.ne.jp/pluiedete

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