淡路で見出された天才少女
文楽などの人形浄瑠璃で語られ、歌舞伎においても義太夫狂言の中で大きな位置を占める「義太夫節」。性別関係なく登場人物すべての心理、台詞、情景描写などを一人の太夫が語る芸だ。女流義太夫はこの義太夫節を女性が語る芸能。江戸時代に生まれ、明治時代にはアイドルの先駆けとされるほどの人気を博し、志賀直哉や高浜虚子らも熱を上げたという。竹本駒之助は人形浄瑠璃が盛んな兵庫県淡路島の中学校の部活動で義太夫節と出会い、義太夫好きの母の勧めで、まず淡路在住の女流義太夫三味線の師匠、鶴澤友路(当時は君香)に、次いで太夫の師匠、竹本島之助に師事した。
「母が『お前は声が大きいし、日本一不器量だから、顔をくしゃくしゃにして語る太夫が合っている』と言って。何にも分からないうちに、無理矢理やらされたんです(笑)。やがて、本場大阪からいらした女流義太夫のお師匠さんたちを私の家にお泊めした際、皆さんが私の語りを聴いてくださり、『天才少女』とおだてられ、中学3年生で、大阪で竹本春駒師匠の内弟子として修業することになりました」
この時に付けてもらった芸名が、現在の「駒之助」。新たな師匠、春駒から「駒」を、それまでの師匠、島之助から「
「島之助師匠は私を淡路に置いておきたいと思っていらしたのですが、母はやるからには郷土芸能ではなく本場でプロに、と考えたんです。私本人の気持ちなど無視して、ですよ(笑)。その際、島之助師匠が、自分が手がけた子だから、やりたくないのを出すのだから、自分の名前を付けてくれとおっしゃって、この名前になりました。男性の芸能が元なので、女流義太夫では男性のような名前が多いのですが、お陰で男性が来ると思っていたら女性だった、と言われることは多いですね。郵便配達の人にも、男性ではないんですか、と驚かれます」
大阪で春駒の内弟子となった駒之助だが、やがて文楽の十代目豊竹若大夫の下でも学ぶことになる。さらに、四代目竹本越路大夫(当時は豊竹つばめ大夫)にも、彼の先輩である若大夫が直々に頼んでくれて師事することに。若大夫も越路大夫も、文楽史にその名を刻む名人だ。越路大夫に師事する際、駒之助が言われたのが「女だったら引き受けない。女だと思わず指導する」という言葉。
「義太夫節は男性の芸能で、女性は声帯も腹力も違うけれど、女だと思ったら甘くなるから、と。越路師匠はとてもストイックな方だったので、指導を甘くして、それで芸が通っていくのは耐えられなかったのだと思います。男性が弟子入りしても我慢できる人は少ないと言われるほど厳しい師匠で、私のほかには女性のお弟子さんは一切お取りになりませんでした。実際、お稽古は1回で10年分の収穫があるほど濃密。『女だからといってやれないはずはない。出してみ。死んでもええやないか』と何度も言われました。義太夫節はまさに決死の芸で、1時間語っている間に目の前が真っ暗になり、終わって『ああ生きていたのか』というところまでいかないといけないんです。よく『(芸が)女臭い』とも叱られましたね。女なのだから女の役はそのままやればいいようなものだけれど、それだと声を『振り回す』など、芸がいやらしくなってしまう。逆に芸を極めた方なら男性であっても、女性は女性らしく、男性は男性らしくお語りになるんです。ですから、まずは自分を忘れ、芸をきちんと作っていくことが大切。そこから初めて個性が出てくるわけなので、女性だから女性の役は分かる、語りやすい、などとは、絶対に思いません」