28歳でメトロポリタン歌劇場に大役でデビュー
ーー森谷さんは日本でオペラの舞台を踏む前にアメリカのMETでデビューを果たすという、日本人オペラ歌手としては異色の経歴の持ち主です。歌との出合いは、いつだったのでしょうか?
母がオペラ歌手だったので、物心ついた頃には母が歌うコンサートや市民オペラを観ていましたね。家でもクラシック音楽ばかりかかっていたので、当たり前のように周りに音楽がある環境でした。
ーーサラブレッドですね。武蔵野音楽大学大学院では声楽専攻を首席で卒業。ところが、日本では順風満帆とはいかなかったとか。
日本に関わりのある研修所や奨学金などは根こそぎダメでしたし、留学のための奨学金に応募しても落ちました。理由は分からないのですが、私の外見や性格含め総合的な在り方が、当時、良いように見えなかったのでしょうね。アメリカに渡ってからは比較的順調にキャリアが開けていったので、私には向こうが合っていたのだと思います。
ーーアメリカではマスネ音楽院に進まれましたね。
はい。プロフェッショナルスタディーズコースで学び始めて2年目に、メトロポンオペラ・ナショナルカウンシルオーディションを受けたんです。アメリカ人の有名歌手はだいたいここを通るというコンクールのようなもので、先生には言わずに受けたのですがバレていましたね(笑)。
セミファイナルに受かったところで先生が本気になり、色々とセットアップしてくださって、ファイナルまで残ることができました。そのご縁でMETのカヴァー(代役)の仕事をいただきましたし、パームビーチ・オペラの『魔笛』夜の女王役でオペラ
ーー『魔笛
人生で一番緊張した瞬間でしたね。自分のキャリアはここで始まってここで終わるかもしれないと思いました。当日のことは今でもよく覚えています。歌い終えて先生が舞台裏に来てくれた時、初めて泣いたのですが、それは感動でも安堵(あんど)でもなく、ひたすらストレスから(笑)。私は当時28歳。日本でオペラの舞台を一つもこなすことないまま、オペラ歌手がゴールとして目標にする最高峰の劇場の大役をいきなりいただいてしまったので、本当に崖っぷちだったんです。
ーー指揮はMETの「顔」だった音楽監督のジェームズ・レヴァイン、演出は『ライオンキング』も手がけたジュリー・テイモアという、ビッグプロダクションでした。
レヴァインに「これでいいかな?」と聞かれても、話をするだけでやっと。私から何かリクエストするなんて発想すらなくて。素晴らしい指揮者ですから、自然に気持ち良く歌うことができました。演出的には、個々の演者がものすごく演技をするというより、やることが決まっているプロダクションだったため、逆にその難しさがありましたね。
私はセカンドキャストだったので、衣裳を着て演じたのは本番当日。客席から観たことはありましたが、歌いながら「ああ、なるほど、これはこういうことだったんだ」と(笑)。でも、METは音響がいいので、歌いやすいんですよ。
ーー28歳の若さで大役を手にして、嫉妬されたりは?
皆さん、とても優しくて親切でしたが、先生には「しゃべらず笑顔を振りまいて、稽古が終わったらさっさと帰ってきなさい」と言われました。あと、いつもTシャツにジーンズという服装だったので、「もう少しきれいな服を着なさい」とも。ありがたいアドバイスだったと思います。
というのも、私が発した言葉を誰が聞いて、どう独り歩きするか分からない。当時の私は、自分の言動に責任を持てるほど大人でもなかったので。実は1カ月ほど前、その当時指導してくださっていた先生が亡くなったんです。とても残念ですが、先生から学んだことは今でも宝物です。