※本記事は、Asia Timesに4月17日付けで掲載された『Why Japan gets no Covid-19 respect』を翻訳し、転載。
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)時代における「英雄」的な場所と、「悪者」的な場所が明らかになりつつある。前者には香港、韓国、台湾が含まれる。後者は特に中国だ。北京はウイルスを制圧したかもしれないが、それは明らかに独裁主義的なやり方であった。否、制圧できたのだろうか? そのデータには大きな疑問が残る。
日本はこれらの両極の間の不安定なところに位置づけられる。成熟し、安定した民主主義国家であり、隣国の韓国よりも新型コロナウイルス感染症による死亡率が低い。人口が2倍以上で、国民は世界で最高齢であるにもかかわらずだ。日本のこの人口統計学的特徴は、パンデミックに対する同国の独特の脆弱(ぜいじゃく)さをもたらしている。
しかし日本は、主要メディアやソーシャルメディアで正当な評価も敬意も得られていない。多くの議論において、日本は無視されるか中国と並列に扱われている。新型コロナウイルスへの対応に関して外交上の批判すら受けている。
なぜだろうか?
まさか、検査なし?
日本に対する主な疑念は、検査を広範囲に行わないことで意図的に統計上の新規感染者数を抑えてきたのではないか、というものだ。
これは疑惑というより単なる事実に近い。日本の方針は当初から、せきが出て不安な全国民を病院に向かわせて待合室をいっぱいにするような事態を避けるというものであった。認めようと認めまいと、正当な戦略ではある。
しかし、新型コロナウイルス感染症との戦いにおける成功と失敗を図る真の指標は、決して感染者数ではない。総死者数、あるいは、間違いなくより重要なものとして、重症患者数である。重症患者の数が医療施設の受け入れ能力を圧迫するからだ。
日本の病院はこれまで、需要に対応することができてきた。広くうわさされる死亡者数の抑制や隠蔽の疑惑は無根拠、茶番、ないし都市伝説の域を超えない。簡単に言えば、証拠がないのだ。
いまだ進行中の新型コロナウイルス感染症を制圧するためのグローバルな戦いにおいて、日本が見習うべき国として見られていない主な理由は、おそらく2点ある。
第一に、日本が成功した理由(コロナ危機はまだ終わっていないので、あくまでも現時点においてだ)が議論の的となっており、あいまいで不透明であること。第二に、日本の新型コロナウイルス感染症との関わりが、最初から幸先悪く始まっていることである。
日本が初めて新型コロナウイルス感染症と関わったのは、クルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号の検疫においてであった。西洋諸国の反応はおおむね嘲笑的なもので、「フクシマの時と同じだ」という論調も多かった。2011年の原発メルトダウンの際に破滅的にひどかったとされる、日本の官の対応に言及してのものだ。
ダイヤモンドプリンセス号の乗客にとっては忘れられない旅となったことだろうし、この航海はクルーズ船産業全体にも大きな影を落とした(写真:AFP/読売新聞 )
クルーズ船から解放された乗客がその後東京の地下鉄で帰路に就くと、あざけりはさらに増した。死亡者が波のように発生すると予想された。しかし、そうはならなかった。
その後、注目は日本から韓国、イタリア、ヨーロッパ、アメリカへと移った。日本が再び望まない注目を浴びるようになったのは3月下旬に入ってからのことだ。
東京都知事の3月25日の『非常事態』宣言(外出自粛要請)は実際のところ、民衆が責任をもって行動するようことを求める、おおむね緊急の要請であった。制度上、都知事の持つ強制力が弱いためだ。
しかし、要請がオリンピック延期決定の翌日に発表されたことで、しばしば疑惑の目が向けられている。その疑惑は、オリンピックを強行するために官がアウトブレイクの真の深刻さを隠してきたのではないか? というものだ。
しかし、そうではないかもしれないのだ。
3月下旬は桜が満開になったころ。3月21、22日の週末には、東京では新型コロナウイルス感染症など起こらなかったかのように桜の名所に人が押し寄せた。その不可避の結果が、感染者の増加である。
その時ソーシャルメディアの批評家は、東京はひどい状況に陥っているニューヨークのわずか1、2週間後を追っていると予測した。だがこの予測は顕著な点を見過ごしていた。実は日本は、アメリカよりも数週間先に新型コロナウイルス感染症との戦いを始めていたのだ。
ゆえに、日本がニューヨークの恐ろしい増加曲線の後ろにいるならば、日本は数週間の間で何か正しいことをしていたはずである。
フクシマの再来
日本がなぜ今のところ比較的傷が浅くて済んでいるのかを考えてみると、その始点は皮肉なことに、2011年、日本が目に見えない恐ろしい脅威に直面したときに嘲笑の対象となったいくつかの出来事にある。実のところ、「二つのフクシマ」があった。一つ目は官の反応、二つ目は日本国民の反応だ。
大惨事となり得た状況に対して最終的には1週間かからずに安定をもたらすことに成功したものの、政府および主要電力会社の東京電力の反応はだらしなく、混乱を招くものであった。
公衆の反応に関しては、世界のほとんどが救いがたいほどのパニック状態に陥った一方で、日本人は落ち着きを保っていた。
日本が比較的平静を保っていたのは、日本国外の多くの人が理解していなかった3点の理解に基づいている。
2011年3月15日に東京電力(TEPCO)が撮影したこの写真は、福島県の大熊町、福島第一原子力発電所3号機から立ち上る白煙を写し出している(写真:AFP/TEPCO)
1. 放射能は隠すことができないため、『隠蔽』自体しようがなかった。非独裁主義の政府は新型コロナウイルス感染症による死者の遺体を隠すことはできないが、同じようなものだ。ガイガーカウンターを持つ個人なら、誰でも放射能の計測は可能だ。
2. ラドンという化学元素があれば、ガイガーカウンターは地球上のほぼどこでも反応を示す。それゆえ、ゼロよりも大きい計測値が出たところで、直ちにパニックを起こす原因とはならないはずである。
3. 目に見えない放射能という脅威に対する、迷信にも近い恐怖心は、パニックを起こすしきい値が低いことを意味する。ゆえに、もし計測値が許容される基準値の40倍だと言われても、空港に急ぐのではなく、それが実際何を意味するのか専門家の確認を待つことが賢明である。
「フクシマと同じ」という表現は侮蔑的ではあったものの、実のところ先見の明があったとも言える。このところ日本の民衆が再び頭角を現してきたからだ。
民衆の力
ロックダウン(都市封鎖)は新型コロナウイルス感染症への対応として既定の措置方針となった。しかしロックダウンは、入念にソーシャルディスタンシング(『社会的距離』を保つこと)を実行できる民衆にとって必要性は低い。さらにソーシャルディスタンシングは、手洗い習慣が比較的根付いている民衆にとってさほど重要性は高くない。
全ての人がキャリアである、もしくはキャリアになり得ると想定することが最善の保護対策となる。このことを日本の民衆は理解し、実行している。
日本にとっての真の武器は、新型コロナウイルス感染症の出現後も特に新しい何かが必要となったわけではないことだ。基本的衛生への注意はインフルエンザシーズンの要となっている。福島のメルトダウン後に日本の一般大衆にも使用されるようになった手指消毒液は、完全になくなってはいない。端的に言えば、必要となったものの多くは、すでにあったものを強化すればよいだけのものであった。
それゆえ、日本政府の対応への絶え間ない批判は、さほど重要ではないと言える。木曜に首相の安倍晋三が行った非常事態宣言の全国拡大などの政府指令も、日本においては欧米諸国と同等の影響があろうはずもないのだ。
加えて特筆すべきことは、日本の保健システムの質の高さだ。国民皆保険制度で、日本の人口に高齢者が多く占めるがゆえに呼吸器疾患の治療が非常に進んでいる同国のシステムは、世界最上級の評価を受けている。
現時点では、独善的にすら見えた3月の逸脱的な対応はうまく中和できたかのように見える。感染者の爆発的増加は起こっていない。
日本が緊急事態に入り、新宿駅にはいつもの人通りはない(写真:AFP)
本記事執筆時点におけるジョンズ・ホプキンズ大学のデータによると、人口1億2600万人に対し感染者数8626人となっている日本において患者数は増加しているものの、管理可能な程度に収まっている。死亡者数は178人となっている。
比較のために挙げると、韓国(人口5100万人)、感染者1万0613人、死者229人。イギリス(人口6600万人)、感染者 10万3093人、死者1万3729人。ドイツ(人口8300万人)、感染者 13万5633人、死者3856人。アメリカ(人口3億2800万人)、感染者64万0291人。ニューヨークシティだけで死者1万0899人となっている。
最後の2つの数字は特に衝撃的である。ドイツ、アメリカ両国が日本の検査数不足を非外交的に批判したことを踏まえれば特にそうだ。
元米軍軍人でアジア・ウォッチャー、アル・ジョンソンは「日本というのは、ジャンクフードを食べて運動もしないくせにスリムな女の子のようなものだ。半数の人は彼女を無視したがる。もう半数は彼女を憎らしく思う」と書いている。
公平のために言えば、日本を無視する人は許されてもいいだろう。韓国モデルの主要な手段である「検査、検査、検査」は分かりやすいし、応用しやすい。しかし日本モデルはというと、そうとは言えない。
ならば、日本を憎らしく思う人はどうだろうか? この人たちはあのダイヤモンド・プリンセス号の時点では、我々がみんな一緒に「フクシマ」状態になることになると予想できなかった人たちだ。彼らが日本に手本を示すことになると思っていたのだ。彼らの「フクシマ」コールは、やがて「再び、アメリカ(人)ファースト、アメリカナンバーワン」に置き換えられることになるのかもしれない。
Paul de Vries(ポール・デ・ヴリース)
日本在住のオーストラリア人ライター、教育者。著書『Remembering Santayana: the Lessons Unlearnt from the War Against Japan』はAmazonにて販売中。