タイムアウト東京 > 音楽 > インタビュー:矢野沙織
14歳からジャズクラブでライブを始め、現在の女性サックス奏者たちの躍進を先駆けた矢野沙織。チャーリー・パーカー(Charlie Parker)が築いた古典的なジャズの様式「ビーパップ」を軸にした演奏スタイルで、2023年にデビュー20周年を迎え、プレイヤーとしても2児の母としても充実の毎日だ。
新たな10年のスタートとなる2023年を経た今年、彼女はどんな活動を見据えているのだろう。老舗ジャズクラブでの思い出や、お茶の間に浸透したテレビ番組「報道ステーション」のテーマ曲「Open Mind 」の制作裏も交えて語ってもらった。
―― 昨年はデビュー21年目ということで、どんな1年でしたか?
矢野沙織(以下、矢野): 初めてのことにチャレンジした年でしたね。たくさんのツアーを行ったり、あと初めて共演したピアニスト・丈青さんとサックスプレイヤー・纐纈之雅代さんと「CATS&NUTS」というユニットを組んでみたり。サックス2本とピアノという謎な編成ですが、下関まで回りました(笑)。
「楽しかったから、ツアーに行ってしまおう」という感じだったんですよ。全員で創造して登っていくタイプの演奏というよりも、お互いのことを考えながら、それぞれを立て合って演奏する感じ。粘土を重ねていくように、最初はよく分からないかもしれないけれど、だんだんと形ができていくような。
―― 矢野さんは古典的なビーバップだけでなく、現代的なプロジェクト「House of Jaxx 」にも取り組まれています。
ちょうど、今年はHouse of Jaxxで新しいことができないかな、と考えていました。あとは、演奏以外の面で新たな人と繋がることも大事だろうと。そういったチャレンジで、自分がどういう演奏を未来にしているのかは正直分かりません。ただ、もう「ビーバップを頑張ります」とは思わないかな。
―― それはなぜ?
デビュー20周年アルバム『The Golden Dawn』を制作した時に、菊地成孔さんが「どういう音楽をしても矢野さんはビーバップになる」と言ってくださったから。「自分の言語がそうなんだ」と気付き、自信にも繋がりました。
今のビーバップってアカデミックになって、そろばんを弾くように上手な演奏ができるようになりました。それは素晴らしいですが、私は様式的な音楽に興味がないんです。探求したいのは、血が沸き立つような本来のビーバップなので。
それにサックス奏者のケニー・ギャレット(Kenny Garrett)もマイケル・ブレッカー(Michael Brecker)も、計算して今のスタイルになったわけじゃないと思うんです。その辺りは昔から勉強でどうにかなる領域ではないですし、ビーバップの創始者の一人であるチャーリー・パーカーだって異常な人でした。
―― 異常な人や昭和型の破天荒な性格の人って少なくなりましたね。みんな良い子になったというか。
それは本当にそう。私も自分の子どもに対して「普通でありますように」とよく考えるんです。お遊戯とかも私はできなかったのに「子どもには踊ってほしい」と思いがち。「多様性」という言葉が定着して、そういう教育があるとは思うのですが、周りの子もありえないくらい、良い子。
――そういう「良い子」たちが、音楽だけでなく性格的にも狂人だったチャーリー・パーカーのコピーとかするのは、ねじれた図式だと思います。彼が生きていたら、今のように評価されるのでしょうか。
シンプルに逮捕ですよね。逮捕されて、また逮捕されて執行猶予が消えて、3回目も逮捕。やっと40歳を過ぎて釈放されて、それでもまた逮捕されるというパターンだと思う(笑)。ただパーカーやベーシストのジャコ・パストリアス(Jaco Pastorius)のような天才で、最初からああいう音楽が頭で鳴っている子は理解してもらえないゆえに短命なのかもしれない。
今だったら「〇〇障害」という言葉を付けられて薬を飲んで少し落ち着く、という感じで上手に生きられた可能性もありますよね。彼らの演奏からは繊細な機微を感じるんです。というか、それしか聴こえないからジャコの演奏は怖い。大好きですけどね。
新宿DUG店主・中平穂積との思い出
――ジャズの歴史を感じさせる話として、日本でも最近だと老舗ジャズ喫茶・新宿DUG の店主の中平穂積さんが亡くなったというニュースもありました。何か思い出があれば教えてください。
今の店舗ではなく、2007年まであった地下の「new DUG」で毎週演奏してました。禁煙ではないからたばこの煙が充満していて、当時16歳ぐらいだった私に向かって人が詰めかけていた印象があります。とっくに平成でしたけど、昭和感があるというか。
中平さんは優しくてオシャレでしたね。いわゆるオシャレというよりも、くたびれたシャツとナロータイ、それから皺(しわ)くちゃのジャケットという雰囲気のあるスタイル。
ライブハウスはいろいろな人が来るので、「はい、沙織ちゃん来て!」と力で守ってくれるオーナーさんが多かったんです。でも中平さんは特に何も言わなくても、ふと通るだけでお客さんが後ろに下がるような不思議な方でした。怒るのも見たことがないし、「あれがダメ、これがダメ」ということもなかったです。
――数々の著名ジャズミュージシャンの写真を撮ったことでも有名な人ですよね。
中平さんは「僕なんてダメだから」と言いつつ、「演奏中のミュージシャンはどう撮ってもカッコいいので撮影は簡単。大事なのはいかに演奏の邪魔にならないようなクローズな関係になれるか。それで表情が変わるから、そこを撮るんですよ」と話していましたね。もっと品のある言葉でしたけど(笑)。
彼に撮ってもらった、煙がもくもくした黒山の人だかりのなかで、子どもの私がぽつんと演奏する写真がそのまま私のNew DUGのイメージです。あの写真は彼の家にあるのかどうなのか……。
14歳の時に西新井「カフェ・クレール」でデビュー、 当時を振り返る
――ジャズスポットの話として、先日クリスマスコンサートを開催した西新井の「カフェ・クレール 」についても聞きたいです。矢野さんは歌手ビリー・ホリデイ(Billie Holiday)の自伝を読んで、直接電話をかけて出演交渉をされたとか。
当時は14歳でデモテープもないし、どのライブハウスも相手にしてくれないという状況でした。その中でカフェクレールさんだけが「今日か明日の夕方に来てみたら?」と言ってくださったんです。
それからオーナーさんが普段出ているプロのミュージシャンの方々に毎回「矢野沙織という子がいて一緒にやらせてくれませんか?」と交渉してくれて、どんな仕組みでライブが成り立ってるのかも丁寧に教えてくれました。本当にありがたかったです。
――最近YouTubeに当時の動画を解説付きでアップされていましたね。
たまたま発見したんですよ。パカッと開けてみたら残ってて「使えるじゃん!」と。14歳から変わってない部分があったらヤバいのに、「このフレーズ、今でも吹くわ」という部分もあって(笑)。緊張もすごかった。
リハーサルの時点で共演者の方に怒られたり、「自分のステージに上がるには値しない」と言われたりしたこともありましたね。それからは、一緒に演奏するミュージシャンにどう思われているのか、いつも気にしていましたよ。今もお客さんよりもステージの内側には敏感です。
――デビュー時、報道ステーションのテーマ曲として有名だった楽曲「Open Mind」は今でも演奏されているそうですね。改めて聴くと、トリッキーな3拍子のリズムを入れつつキャッチーで素晴らしい曲だと思いました。
やっと最近になって楽しく演奏できるようになりました。松永貴志君の曲としてリリースされましたが私もアイデアを出しながら、ああだこうだと、ふたりで言いながら楽しく作った思い出があります。やっぱり子どもの創造力ってすごい。
――作曲時のエピソードも聞きたいです。
最初のテーマは私の提案でしたが、リズムが理解できず、歌いながら「これ何拍子だろう、5拍子とか入ってない?」と松永君に聞いた思い出があります。譜面に強い彼は「3拍子やで。ずっと3でええんや」と励ましてくれましたね。
当時の私たちはとても良い関係でした。彼は、いつもネガティブな私に対して前向きな言葉をかけてくれたし、ピアニストとして本当に天才だと思ってます。
――今回の撮影場所である、成城学園前「THE MOMENT JAZZ CLUB 」は新しいジャズクラブです。こちらにもよく出演されていますが、どのような印象を持っていますか。
オープンしてまだ2年目の新しいお店だということが信じられません。音響もいいし、マスターの接客がプロフェッショナル。SNSで余計なことを言わないのもいい(笑)。
Photo: Keisuke Tanigawa 「THE MOMENT JAZZ CLUB」で撮影
2025年、新たなステップへ
――では、2025年に取り組んでみたいことも教えてください。
私はCDで儲(もう)かったことのない世代なんですよ。だから売上にも執着がありません。ゴールドディスクを受賞しても「何万枚売れました」と聞いても1980~90年代の人たちのようないい生活をしているわけではないですし。逆に「CDが売れなくなった」と聞いても、前からそうだったとも思うんです。
20周年を終えて、何かジャズ業界に還元したいと考えるようになって、その時に私はお金や技術以外の方法があるんじゃないかなと。思い付いたのが、私のアルバムには亡くなってしまったジャズのレジェンドたちの演奏がたくさん吹き込まれているということでした。
ジェームス・ムーディ(James Moody)やジミー・ヒース(Jimmy Heath)、ハロルド・メイバーン(Harold Mabern)、ロニー・スミス(Lonnie Smith)といった巨人たち。彼らと演奏したことを過去の栄光として話すのは寒いと思う人もいるかもしれないけど、私がしたいのはそういうことじゃないんです。だってムーディは先人との共演を誇りに思って、いつも楽しそうに話してくれましたから。
――なるほど。
孫のような存在の私からしたら、単純に素晴らしい話ばかりなんですよ。だから自分に蓋をしたらダメだなと感じたんです。それに私の場合は彼らと一緒に録音しているから、自分のフィルタを通さずに音が語ってくれる。それが強み。
だから再度、私の作品の中の彼らに光を与えられたら。彼らが遺してくれたものを使ってジャズに貢献したい。それが今年の一番の目標です。
例えばオルガン奏者のロニー・スミスはア・トライブ・コールド・クエスト(A Tribe Called Quest)など、ヒップホップでもサンプリングされているじゃないですか。だから「日本人ミュージシャンが彼らと音源を出していたんだ」と、ジャズ以外のリスナーが彼の素晴らしさに気付いてくれるきっかけになってほしい。
――そういう心境に至った理由も気になります。
今まで自分が「次はヒップホップをやりたい」とか「弦楽とやりたいです」とか言ってたのがバカらしくなっちゃったんです。「そんなのやればいいじゃん」みたいな。出産を経て、体力の衰えなどのエイジングを感じています。
前はギンギンだった自分もようやく力が抜けてきたと思うと逆にワクワクするんですよ。だから来年は「もっと頑張って上手くなるぞ」という考えではない、違うステップに行きたいかな。
Photo: Keisuke Tanigawa