ピンク・フラミンゴ
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カルト映画の名作15選

『ピンク・フラミンゴ』や『レポマン』、『エル・トポ』など、今夜こっそり観たいカルトな映画

Mari Hiratsuka
テキスト: Matthew Singer
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誰も最初からカルト作品を作ろうとは思わない。まあ、デヴィッド・リンチやアレハンドロ・ホドロフスキー、そしてジョン・ウォーターズは例外かもしれないが。

脚本を仕上げ、キャスティングや監督だけでなく、資金調達などもして、撮影までこぎつけるような手間をかける以上、作家魂の奥底では常識破りのヒット作になることを密かに願っているものだ。とは言っても、最高の結果がカルト映画の枠に落ち着くこと、というケースがほとんどなのだが……。映画に限らずだが、芸術にとっては「カルト」の枠に入っただけでも、いいことと考えるべきだろう。実際、この言葉の意味が広く理解されるにつれ、多くの作り手がそれを名誉の印のように誇るようになった。

さて、本リストを作る上で問題になるのは、「カルト映画とは一体何か」ということ。これを定義するのは決して容易ではないが、一つ確かなのは、それが「ファンの熱狂的な情熱により、公開時をはるかに超える収益を後から生み出した映画」であるということだ。

ここでは、タイムアウトワールドワイドが選んだ作品を紹介。原文では40作品紹介されているので気になった人はチェックしてほしい。

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1. エル・トポ(1970)

アレハンドロ・ホドロフスキーは、アメリカの観客とつながろうと試みて、西部劇という人気のあるジャンルを乗っ取った。しかし、精神世界を旅するような西部劇は、誰も見たことのない代物であった。ただここでは、復讐や銃撃戦といった西部劇の王道のテーマは、聖痕や荒野の放浪といった深い精神的象徴によってぼやけてしまっている。

一匹狼のメキシコ人の主人公が作り出した狂気に満ちた映像は、1970年代のニューヨークにおけるミッドナイトムービーの中で多くの熱狂的な信奉者を獲得した。特にかつてチェルシーにあった「Elgin Theater」では、1年以上にわたって毎日上映され、レイトショーというコンセプトの火付け役となったことは見逃せない。そして、本作が実際のカルト教団を描いた、数少ないカルト映画の一つであることも特筆に値する。

2. ピンク・フラミンゴ(1972)

クリテリオン・コレクション社のラインアップの端にけばけばしく置かれているのは、ジョン・ウォーターズの俗悪映画の金字塔である「ピンク・フラミンゴ」だ。公開から50年を過ぎたが、依然として若さにあふれ何でもありの過激さを持つ、手榴弾のような作品である。

映画ではドラァグクイーンのディヴァインが、犯罪者バブス・ジョンソン(別名「世界で最も汚い人間」)として登場し、親と一緒に観るのは絶対に避けたいほど衝撃的なストーリーを展開する。ウォーターズが持つ、ウィリアム・キャッスルにも通じる演出家としてのセンスのおかげで、この作品は公開直後にカルト的な地位を得た。

上映に際して、観客に「ピンクの痰(phlegm)」で言葉遊びをしたピンクフレムインゴ」という名前のおう吐袋が渡されたという。ミッドナイトムービーシーンでの人気の高さが、この作品の評価をさらに確固たるものにしたといえる。

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3. ロッキー・ホラー・ショー(1970)

この奇抜なミュージカルホラーコメディは、公開直後からカルト映画の最高峰としての地位を確立した。作品のファンに「にわか」は存在しないといえるだろう。メジャー作と比べると観客の総数は決して多くないが、観た者は誰もがとりこになってしまうのだ。

その名声の多くは、世界中の映画館で40年にわたって続く熱狂的な深夜上映により築かれたものだが、作品そのものが持つ斬新さも無視できない。

ティム・カリーは、彼らしい全身全霊の演技で、ドラァグ姿の狂気の科学者であるフランクン・フルター博士を怪演し、嵐の夜に運悪く彼の城に迷い込んだ若い恋人たち(バリー・ボストウィックとスーザン・サランドン)を翻弄する。

果たしてこの映画が「良い」のか、それともただの「狂気」なのか、懐疑的な声もあるが、そんなことは重要ではない。自分は周囲に適応できていないと感じ、居場所を求めている人たちにとって、これほど明るく輝く道標はほかにないのだ。

4. イレイザーヘッド(1977)

デヴィッド・リンチの作品で描かれているものをそのまま理解しようとしても、たいてい無駄な試みとなる。しかし、彼のこの長編デビュー作に関しては、最終的に何を伝えたかったのかを解釈するのはそれほど難しくない。子を持つ父親になることが、リンチにとっては心の底から震え上がるほど恐ろしいということだ。

その意味においては、この長編デビュー作の「イレイザーヘッド」は今もなお、彼の最も個人的な作品である。もちろん、リンチ作品らしく、この白黒の悪夢を見ているような体験は、明確な意図を示すというよりは、幻覚的で緊張をはらんだ夢のように映る。

本作を観て不安に駆られた多くの父親は、生まれたばかりのわが子を初めて見たとき、映画の中の金切り声で鳴くトカゲの赤ん坊でなかったことに、安堵のため息をついたはずだ。

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5. レポマン(1984)

アレックス・コックスによるパンクなSF風刺劇は、意図的にごく限られた層に訴求するよう作られているという点において、典型的なカルト映画である。決して「話の筋が通っている」とは言いがたいが、その奇妙さだけで一躍カルトクラシックの地位を確立した。

怒れる若者エミリオ・エステベスは、年老いたビートニクのハリー・ディーン・スタントンに誘われ、車の差し押さえ業に足を踏み入れる。だが、彼が引き取ったシボレー・マリブのトランクに「何か」が潜んでいたことで事態は一気に複雑化する。

映画は独自の怪しげなリズムとアウトサイダー的ユーモアに終始しているが、全編にわたりエネルギーのこもった反体制的なメッセージが叩きつけられる。その勢いを少なからず支えているのは、イギー・ポップによるテーマ曲をはじめとするハードコアパンクを集めたサウンドトラックだ。結果的にこの映画は、予想をはるかに超える幅広い観客を獲得するに至った。

6. ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ(2001)

なぜ2024年にミュージカル映画「エミリア・ペレス」が公開される必要があったのだろうか。性別適応手術についての最高の楽曲はすでに書かれているというのに......。

ジョン・キャメロン・ミッチェルによる挑発的なグラムロックミュージカルである「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」は、もし今日公開されたら保守的な赤い州では上映禁止、リベラルな青い州では過剰な批評の餌食になっていただろう。だが、本作にはあらゆる批判を投げつけられても、それを物ともしない純粋なパンクのエネルギーがある。

ミッチェルが演じるのは、共産主義下の東ドイツに暮らすゲイのシンガーソングライター、ヘドウィグ。彼女はアメリカへの亡命とロックスターになる夢を追い求めるために性別適合手術を受けるが、手術は失敗に終わる。

「怒りのインチ」を意味する「アングリーインチ」とは、劇中の楽曲で歌われる通り、「かつてペニスがあった場所/いつであろうとも膣が存在しなかった場所」に残された肉の塊を指している。

問題含みの物語? まぁ、そうかもしれない。だが、クィアの若者、ジェンダー規範に囚われない人々、そして声高に自らの個性を誇るすべての変わり者にとって、この映画は身体のどの部分よりも心に、強く寄り添ってくれる作品なのだ。

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7. ヘザース/ベロニカの熱い日(1989)

恥ずかしい告白をさせてもらうと、筆者は長い間、この映画はジョン・ヒューズの作品だと思い込んでいた。しかし、それはまったくの見当違いだった。

実際には、ジョン・ヒューズの映画に象徴されるような「なぜティーン同士は仲良くできないのか?」といった素朴な問いかけに、ショットガンをぶっ放すような映画だったのである。監督のマイケル・レーマンの答えはこうだ。「だって、中には罰を受けて然るべき子もいるでしょう......」

ウィノナ・ライダーとクリスチャン・スレーターが演じるのは、オハイオ州の高校で意地悪な女子グループを殺害し、その死を自殺に見せかけるティーンエイジャーのカップル。言うまでもなく、こんな映画は今日では絶対に制作不可能だろうし、1989年当時でさえ一般向けの作品として成立するのはギリギリだった。

しかし、この映画の「超」ブラックコメディーとしての痛烈な風刺の効き具合には、ほかのどんな映画も及ばない。

8. ショーガール(1995)

ポール・バーホーベンが監督したラスベガスの性労働者を描いた大げさなメロドラマを見て、なぜかどの批評家もこの作品が意図的にばかばかしいものとして作られている可能性を考えようとはしなかった。

本作は、子犬殺しの犯人並みに罵倒されたが、今やキャンプ映画(ばかばかしいほどの誇張や過剰さを特徴とした映画のジャンル)の古典として再評価されている。いや、それこそが最初からふさわしい立ち位置だったのだろう。

カイル・マクラクランとエリザベス・バークレーが繰り広げる、もがき、のたうち、叫び声を上げるプールサイドのセックスシーンを観てほしい。あるいは、ジーナ・ガーションのセリフを一つでも聞いてみてほしい。それでもなお、出演者全員がこの意図的なばかばかしさに関与していないと真顔で言えるだろうか。

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9. ウェット ホット アメリカンサマー(2001)

1980年代のティーンエイジャー向け「性春」コメディを茶化した作品で、1990年代にカルト的人気を誇ったコントグループのメンバーによって制作された。ブラッドリー・クーパーなど、2000年代のコメディ界を象徴する顔ぶれを多数輩出したことでも知られる。ただ、公開当時に関心を示したのは、共同脚本のデヴィッド・ウェインとマイケル・ショウォルターが携わっていたMTVの番組「The State」のファンだけだった。

その後時間をかけて、アミー・ポーラー、エリザベス・バンクス、ポール・ラッド、そして前述のクーパーらのキャリア初期の出演作として、評価を獲得。2015年と2017年にはNetflixの限定シリーズとして復活も果たしている。

20年数年前の公開時に比べて、本作の特徴であるバカなユーモアはいまでは一般的なものとなったが、この気持ちのいいほどのバカバカしさは、今なお頭ひとつ抜けている。「この作品がわかるやつは、本当にわかっているやつだ」と、コメディおたくの間で、同じ仲間しか知らない独自の仕方の握手のような役割を果たしている。

10. クラークス(1994)

「少ないもので多くを成す」という言葉がある。その好例が、「クラークス」だ。1990年代初頭にインディーズ映画革命を起こした映画の中で、これほどまでに安っぽく見えるものはなかった。

基本的にはケヴィン・スミスが、ニュージャージーのコンビニに、特に演技経験があるわけでもない俳優たちを集め、映画やコミック、自分たちのどうにもならない生活についてああだこうだとおしゃべりをさせ、その様子を映しただけだ。それなのに、最終的にはインディーズ映画の中で最も影響力のある作品になったのだ。

もちろん、スミスの後に続いたもっと野心的な映画製作者たちは、登場人物たちのおしゃべりを多用するクエンティン・タランティーノを目指したはずだ。だが、RedditやX(旧Twitter)でポップカルチャーについてのやりとりを読んでいると、まるでこうしたエンターテイメントの景色のすべてがこの映画の舞台となったコンビニのような場所になり、そこにはダンテやランドルのようなキャラクターが数百万も存在しているように思える。

だとしたら、それも、この映画の残したある種の遺産なのだろう。

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11. ウォリアーズ(1979)

1970年代であっても、ウォルター・ヒルが描いた過剰に定型化されたギャング間の抗争は、荒々しいというよりもむしろ滑稽に見えた。劇中のギャング「ベースボール・フューリーズ」のことを、一体誰が怖いなどと思うのだろう。

しかし現代においては、かつての汚れ果てたニューヨークを閉じ込めたタイムカプセルとして、この映画には活力がみなぎっている。ヒルは実際に荒廃している現地でいくつかのシーンを撮影した。地下鉄の場面は、特に際立っている。

この映画のストーリーは、荒くれ者たちの一団が、大物ギャングのリーダー暗殺の濡れ衣を着せられ、迫りくるライバル勢力の攻撃をかわし、ブロンクスから本拠地のコニーアイランドを目指して夜通し逃避行をする、というもの。こうした、初期のTVゲームを思わせるような展開が本作のもう一つの魅力といえる。

12. ウィズネイルと僕(1987)

何十年にもわたり、名だたる映画監督たちから称賛を受け続けてきたブルース・ロビンソンの作品。1970年代初頭のカムデンを舞台に、酒浸りで仕事にあぶれた2人の俳優の半自伝的な物語を描く。

そろそろ一般層に浸透してもよさそうなものだが、熱狂的なファンの間にのみ共有される存在にとどまっている。そうさせているのは、皮肉たっぷりの世界観や「頭の中で豚がクソをしたようだ!」など面白がって言ってみたくなる台詞に加え、映画に込められた文化的要素が際立って独特であることだ。こうした魅力を発見した人たちが、次の世代の愛好者となっていくのだ。

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13. ゴーストハンターズ(1986)

この映画はジョン・カーペンターの最高傑作としてはあまり取り上げられない。それはおそらく、人間性に対する風刺や皮肉の切れが他の作品と比べて欠落しているからであろう。しかし、本作は間違いなく最も楽しめるカーペンター作品の一つである。

劇中、お調子者でおしゃべりなアクションヒーロー役全開で主演するカート・ラッセルが、サンフランシスコの裏社会、犯罪者のいる悪の世界というだけでなく、妖怪や魔術師のいる闇の世界に飛び込んでいく。

ラッセル演じるのはクールなトラック運転手のジャック・バートン。彼は仲間の妻を、超自然的な力を使う悪の組織から救う中で、予期せぬ状況に巻き込まれていく……。

基本的には「インディ・ジョーンズ」や「グーニーズ」をカーペンター流にアレンジした作品だ。本作を愛せないわけなど見当たらない。

14. エル・マリアッチ(1992)

1990年代のインディーズ映画ブームを支えた柱の一つ、ロバート・ロドリゲスのデビュー作は、監督次第でわずか7000ドル(約100万円)の予算でどこまでやれるかを示した好例である。この資金は、ロドリゲスが故郷のテキサス州オースティンで、新薬の治験のアルバイトをしてかき集めたという。

ギターケースを抱えた流れ者が小さな町に現れ、地元の犯罪組織に殺し屋と間違われるという筋書きは、まさに西部劇の大衆娯楽作品そのもの。これだけを見れば決して斬新とは言えないかもしれない。

だが、激しい熱量のあまりスクリーンの端がチリチリと焦げるかのような、熱くスリリングなエネルギーが作品全体を覆っている。

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15. キャプテン・スーパーマーケット(1992)

主演のブルース・キャンベルは「死霊のはらわた」の1作目と2作目で、スプラッターとコメディーを融合させた「スプラッターコメディー」の名手となった。だが、彼がB級映画界のハンフリー・ボガートとしてカルト映画のファンから崇拝される契機となったのは、より高予算ながら評価が低かった、シリーズ第3弾とされるこの作品である。

中世の骸骨戦士の大群をなぎ倒し、気の利いたジョークやセリフを言わない代わりに顔芸を炸裂させ、血に飢えた小さな自分の分身たちの軍団と死闘を繰り広げる姿は、まさに圧巻。

体を使って笑いを取るシーンを詰め込んだことで、シリーズ前作に比べホラー要素が大幅に削られたが、キャンベルの存在感がその変更を成功に導いている。

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