8月25日、東京西部と埼玉県をつなぐJR武蔵野線の南越谷駅に降り立つと、心浮き立つような阿波踊りのお囃子(はやし)が流れ出した。夏の一時期、南越谷駅および同駅に隣接する新越谷駅の発着メロディーは、阿波踊り仕様に変更される。駅を出ると、あらゆる場所に『南越谷阿波踊り』の開催を伝えるポスターが貼られていて、駅前には踊り子の銅像まで立っている。まさに阿波踊り一色だ。 埼玉県越谷市南越谷。ここは知る人ぞ知る「阿波踊りの町」だ。毎年8月下旬には3日間にわたって『南越谷阿波踊り』が開催され、決して大きくはない南越谷の町に70万人以上もの人々が詰めかける。 始まりはバナナの引き売りから南越谷阿波踊りの成り立ちは少々特殊だ。関東で最もよく知られているであろう高円寺の阿波踊りは、もともと商店街振興組合と青年部の誕生をきっかけとして1957年にスタート。関東で行われている阿波踊りは、そのように商店街が地域振興のために始めるケースがほとんどだ。だが、南越谷阿波踊りは地元の住宅会社であるポラスグループの創業者、中内俊三の「とある思い」のもと、1985年に第1回が開催された。 中内は徳島県板野郡土成町(現在の阿波市)の農家出身。東京で一旗揚げたいという夢から、26歳のときにボストンバック一つで上京。最初は東武線沿線のいくつかの駅で鶏卵販売やバナナの引き売りを始めた。 時代は1960年代半ば、高度経済成長期真っただ中である。バナナは高級品だったこともあって売り上げも良く、自宅兼店舗を建てることを決意する。だが、当時は抵当権がついたままの物件や接道してはいけない物件を売りつける悪徳業者が多かったという。そのことに憤慨した中内は、自ら不動産会社を立ち上げる。それが1969年7月、埼玉県草加市で創業した中央住宅社だった。後に越谷へと本社を移し、ポラスグループという埼玉県南東部を代表する住宅会社へ成長した。 新旧の住民が「新しい町」に愛着を持つために もともと越谷は日光街道沿いの宿場町であり、周辺地域は古くからの農村でもあった。戦後その一部では宅地化が進められ、南越谷はそうしたなかで築き上げられた「新しい町」の一つだった。都心からも電車でさほど遠くないことから東京のベッドタウンという一面を持ち、この30〜40年で人口が急増。現在も居住者は増え続けているという。 そんな南越谷に新しくやってきた住民たちは、さまざまな土地の出身者。その上、職場や遊び場のある東京に半分身を置いているという意識があるため、越谷という土地に対して愛着を持ちにくいという実情があった。 そのため、ポラスグループは1970年代より盆踊りを企画。新住民にとっては新しく移り住んだ土地に対する愛着を深める機会となり、旧住民にとっては新住民と触れ合う機会となる。これが『南越谷阿波踊り』の前身になった。ポラスグループおよび一般社団法人南越谷阿波踊り振興会の広報も務める青栁孝二は、当時のことをこう話す。 「盆踊り大会は開発現場などを利用し多いときは7カ所ぐらいでやっていたようですが、当時、各地で自治会活動が盛んになってきて、そちらでも盆踊りをやるようになってきた。であれば、何カ所かでやってる自分たちの盆踊りを一つにまとめて、『ふるさとづくり』を目的とする祭りができないかということで、中内が徳島にいたころからなじみのある阿波踊りをやることになったんです」そこには自分を育ててくれた徳島という故郷と、自分たちを受け入れてくれた越谷の地に対する恩返しという思いも中内のなかには
「現実世界と伝承世界を二重写しにすることで、奥多摩の世界が立体的に立ち上がり、何気ない山間の景色は突如フルカラーに変貌する」(『奥東京人に会いに行く』60ページ)
日本全国、世界各地の祭りや伝統音楽を追いかけてきたライター大石始が10月に上梓した『奥東京人に会いに行く』は、西端は奥多摩の集落、東端は江戸川区の東葛西、さらに絶海の孤島である青ヶ島など、まさに東京の奥地に焦点を当て、そこに住む人々との会話を通して、その地域固有の文化・習慣をルポ形式でつづったものだ。上記に引用したのは、本文からの一節である。
日々の暮らしのなかにエキゾチックを見出す
常に東京の外にあるものを追いかけてきた大石が、ここにきて「東京の奥」に目を向けたのは、一種の回帰だったという。
「僕は数年前から各地の盆踊りや祭りの取材を続けていて、徐々にマニアックなものが対象になってきて。取材に出かける場所が東京から離れていったんです。それがある時から東京に戻ってくるようになった。
それは感覚的にはアフリカや南米の音楽を探していたのが、ある時期から突然街中で流れているポップスや東京音頭に回帰しちゃった感じと似てるんです。自分の生活とは明らかに違うものを異国に求めるんじゃなくて、日々の暮らしのなかに『自分とは違うもの』、ある種のエキゾチックなものを求めるようになっていったんです」(大石)
大石始
大石にとって、その感覚にシンクロする音楽があった。トラックメイカー兼映像作家のVIDEOTAPEMUSICが2017年に発表した『ON THE AIR』がそれだ。
VIDEOTAPEMUSICの音楽を表すキーワードの一つに、エキゾチシズムという言葉が使われる。音楽ジャンルとしての「エキゾチカ」は、1950年代にアメリカで誕生したもので、南国の楽園をモデルにしたムード音楽として端を発した。それは、現地に赴いて音楽を体得するのではなく、ここにいながら「ここではないどこか」を夢想する音楽だ。
大石とVIDEOTAPEMUSICは、その「ここではないどこか」を距離の問題としてではなく、視点の問題として捉えることに可能性を見出した点で共通していた。
「2000年代に入ってから郊外やロードサイドについてさまざまな視点から語られるようになってきましたけど、文化的にはなにも見るべきものがなくて、語るべき物語がほとんどない不毛な土地だといわれることもあるじゃないですか。でも、そこに住んでいる人間がいて、そこに暮らしがある限り、『語るべき物語がない場所』なんてどこにもないと思うんですよ。
『ON THE AIR』のなかに『ポンティアナ』という曲がありますけど、埼玉県草加市・松原団地の熱帯魚店ポンティアナがモチーフになっていて、曲には近くの国道を走る車のエンジン音が入っている。『モータープール』ではパチンコ店の駐車場で録った暴走族のエンジン音も入っていますよね。団地やパチンコ店が並ぶロードサイドって、決して絵になる場所ではないじゃないですか。普通の映像作家だったら決してロケ地として選ばないですよね」(大石始)
VIDEOTAPEMUSIC
「自分がカメラを向けたい場所というのは『記号としての東京』を表した、例えば渋谷みたいなところじゃなかったんですよ。みんながカメラを向けない場所にも東京はあるし、そういう場所にこそ今の時代ならではの景色があるような気がしていて。
いろいろな土地に出向いた先で得るものをあるけど、自分の根底には人ってそんなに簡単にいろんな場所にいけるわけじゃないという気持ちもある。自分が生まれ育った場所に根を張り、そこから生まれる表現の強さもある。僕の音楽表現自体がそういうものに根付いてるところもあると思う。
自宅にあったビデオテープと鍵盤ハーモニカ、近所のリサイクルショップで買った中古楽器、そういうものだけでどれだけ飛躍した表現ができるのか。海外のアーティストとやるときも、あまり主語を大きくせずに、あくまでもローカルとローカルの交流としてやりたい。そういうやり方であれば、自分の根底を変えずにできるかなと思って。個人との対話を通して向き合っていかないと、大切なものを見落としそうな気がしていて」(VIDEOTAPEMUSIC)
『ON THE AIR』収録の『Fiction Romance』のMVは、福生にある米軍ハウスを舞台に撮影が行われ、地元のシニア社交ダンスクラブのダンサーたちが参加した
東京の記号化できない一面
語るべきもの=そこにコンテンツがあるか否かで東京を見渡すのではなく、会話を通してその地域に潜んでいる物語を覗き込む。大石が本のタイトルを「奥東京に行く」とせず、人に会うことをコンセプトにしたのはそのためだった。時代が進むにつれて記号化されていく街に、異なる視点・レイヤーを差し込むには、人を媒介にした物語が必要だったのだ。
「あくまでもそこに住んでいる人たちのポートレートにしたかったし、人と話し、その土地のことを知っていくというプロセスを踏んでいかないと、何も分からない。
この本はもともとは『令和元年のネイティヴ・トーキョー』という大仰なサブタイトルがついてたんです。最初は都心と対比する形で周縁地域の天然性、土着性を掘り下げるという意味でこのサブタイトルをつけていたんですけど、取材を重ねるうちに、『東京のネイティブ性って何なんだろう?』と思うようになったんですね。
青ヶ島で取材させてもらった太鼓奏者の方のおじいさんはもともと内地の生まれで、結婚を期に島に移り住んで、島の人間として生涯を全うした。佃島に住み始めたのは大阪の漁師たちで、いわば移住者だった。
そうやって一つ一つ見ていくと、必ずしもそこで生まれ育ったこと、ネイティブであることが重要ではなくて、土地に対する『思い』のほうが大切だと思うようになったんです。現代であれば移民や外国人労働者のこととも当然関わってくるわけですが、そういう意味でも、東京もまた、簡単に記号化できないぐらい多層なレイヤーで構成されているんですよね」(大石)
「東京は今、オリンピックを目前にして、海外の人が望む記号的な東京像みたいなものに自らの姿を寄せようとしているように感じていて、少し違和感を持つ時はあります。もちろん海外に向けて分かりやすくプレゼンしようとした結果なんでしょうけど、そういうタイミングで東京の別のレイヤーを提示するこういう本が出たのは良いことだと思います。
最近、焼き肉屋に行くのが好きなんですよ。チェーン系じゃなくてローカルなお店に行くと、朝鮮半島の文化と日本の文化が混ざり合っていて、すごく面白い。駅前のちょっとした焼肉屋にも違う文化の面影が見えることがあるんです。
韓国料理研究家の鄭大聲(チョン・デソン)さんの著書にはそういった歴史の話が出てきて面白いんですよ。メニューやタレでもその店のルーツが見えるし、それが東京のある地域で根付くなかで、独自の成熟を遂げている場合がある」(VIDEOTAPEMUSIC)
VIDEOTAPEMUSICのこうした姿勢は、音楽制作のモチベーションそのものでもあるという。過去のインタビューでは「古い映画のワンシーンに興味が湧いてその時代のことを知るように、大きな家や木の背景にどんな歴史があるのか、探し出してきてはそれをエキゾチックな要素として捉える」とも発言している。彼の楽曲にあるムード音楽以上の魅力は、こうした視点からくるものだろう。彼の音楽に導かれた大石は、風景の新しい見方を示唆されていたわけだ。
「土地に対するVIDEOさんのそうした視線は面白いです。以前(富山県富山市八尾に伝わる民謡)『越中おわら節』をリミックスしてましたけど、八尾の路地を流れる水路の音をサンプリングしていて。あれこそ土地の亡霊を呼び覚ます作業だと思った」(大石)
「子供のころからそうやって遊んできたというか。塀の上を歩くのが好きだったんですよ。学校に行くまでの通学路が飽きてきちゃうと、人の家の塀の上を歩いたりしてたんですよ(笑)。でも、そうすることで今までとは違う地図が浮かんでくる。いまだにそういう感覚はありますね」(VIDEOTAPEMUSIC)
新しい地図を自分のなかに作る。そうすることで、なんでもない風景が一変して見える。そんな風にして風景を見ることも、都市開発ばかりが繰り返される東京には必要なのかもしれない。