大石始
地域と風土をテーマとする文筆家。 旅と祭りの編集プロダクション「B.O.N」。著書に「南洋のソングライン」「盆踊りの戦後史」「奥東京人に会いに行く」「ニッポンのマツリズム」「ニッポン大音頭時代』など。2024年5月に最新刊「異界にふれる ニッポンの祭り紀行」(産業編集センター)が刊行された。
8月25日、東京西部と埼玉県をつなぐJR武蔵野線の南越谷駅に降り立つと、心浮き立つような阿波踊りのお囃子(はやし)が流れ出した。夏の一時期、南越谷駅および同駅に隣接する新越谷駅の発着メロディーは、阿波踊り仕様に変更される。駅を出ると、あらゆる場所に『南越谷阿波踊り』の開催を伝えるポスターが貼られていて、駅前には踊り子の銅像まで立っている。まさに阿波踊り一色だ。
埼玉県越谷市南越谷。ここは知る人ぞ知る「阿波踊りの町」だ。毎年8月下旬には3日間にわたって『南越谷阿波踊り』が開催され、決して大きくはない南越谷の町に70万人以上もの人々が詰めかける。
始まりはバナナの引き売りから
南越谷阿波踊りの成り立ちは少々特殊だ。関東で最もよく知られているであろう高円寺の阿波踊りは、もともと商店街振興組合と青年部の誕生をきっかけとして1957年にスタート。関東で行われている阿波踊りは、そのように商店街が地域振興のために始めるケースがほとんどだ。だが、南越谷阿波踊りは地元の住宅会社であるポラスグループの創業者、中内俊三の「とある思い」のもと、1985年に第1回が開催された。
中内は徳島県板野郡土成町(現在の阿波市)の農家出身。東京で一旗揚げたいという夢から、26歳のときにボストンバック一つで上京。最初は東武線沿線のいくつかの駅で鶏卵販売やバナナの引き売りを始めた。
時代は1960年代半ば、高度経済成長期真っただ中である。バナナは高級品だったこともあって売り上げも良く、自宅兼店舗を建てることを決意する。だが、当時は抵当権がついたままの物件や接道してはいけない物件を売りつける悪徳業者が多かったという。そのことに憤慨した中内は、自ら不動産会社を立ち上げる。それが1969年7月、埼玉県草加市で創業した中央住宅社だった。後に越谷へと本社を移し、ポラスグループという埼玉県南東部を代表する住宅会社へ成長した。
新旧の住民が「新しい町」に愛着を持つために
もともと越谷は日光街道沿いの宿場町であり、周辺地域は古くからの農村でもあった。戦後その一部では宅地化が進められ、南越谷はそうしたなかで築き上げられた「新しい町」の一つだった。都心からも電車でさほど遠くないことから東京のベッドタウンという一面を持ち、この30〜40年で人口が急増。現在も居住者は増え続けているという。
そんな南越谷に新しくやってきた住民たちは、さまざまな土地の出身者。その上、職場や遊び場のある東京に半分身を置いているという意識があるため、越谷という土地に対して愛着を持ちにくいという実情があった。
そのため、ポラスグループは1970年代より盆踊りを企画。新住民にとっては新しく移り住んだ土地に対する愛着を深める機会となり、旧住民にとっては新住民と触れ合う機会となる。これが『南越谷阿波踊り』の前身になった。ポラスグループおよび一般社団法人南越谷阿波踊り振興会の広報も務める青栁孝二は、当時のことをこう話す。
「盆踊り大会は開発現場などを利用し多いときは7カ所ぐらいでやっていたようですが、当時、各地で自治会活動が盛んになってきて、そちらでも盆踊りをやるようになってきた。であれば、何カ所かでやってる自分たちの盆踊りを一つにまとめて、『ふるさとづくり』を目的とする祭りができないかということで、中内が徳島にいたころからなじみのある阿波踊りをやることになったんです」そこには自分を育ててくれた徳島という故郷と、自分たちを受け入れてくれた越谷の地に対する恩返しという思いも中内のなかにはあったという。
社員と地元住民で連を結成
ただし、実現までの道のりはそう簡単なものではなかった。企業が中心となって開催する祭りで交通規制をすることはできないということで、1983年からの2年間は開催を断念。それが1985年になると、新たに赴任してきた警察署長や交通課長が「地域のお祭りを通じて地元に誇りや愛着を持つようになるだろうし、結果的に犯罪も減るんじゃないかということで、警察の方でも許可してくれた」(青栁)と中内の理念に賛同。念願の第1回開催にこぎ着けた。
残されたデータによると、1985年の第1回に参加した連の数は11。徳島から娯茶平、阿呆連という名門が招へいされ、高円寺の葵新連や舞踊集団菊の会も参加した。興味深いのは初回の時点で7の地元連が参加しているということだ。ポラスグループの社員とその家族で構成される北辰連と雅連、同社と付き合いのある大工を中心とする工匠会あすなろ連、職人たちをメインとする匠連など、住宅会社が発案した阿波踊りならではの顔ぶれである。
『第1回 南越谷阿波踊り』の様子
そして、数年のうちにその輪は拡大。企業や商店街、市役所に加え、市民の参加希望者も増えていった。そのなかにはポラスグループの社員と地元住民によって構成されている連もあるという。青栁が立ち上げに関わったゆうゆう連もその一つだ。
「入社3年目、当時社長だった創業者に言われたんです。『青栁くん、連をやろう。しかも地元の人たちと一緒にやる連を始めよう』と。阿波踊りなんてやったことがないからどうしようかと思ってたんですけど、上司からも『やってくれ』と言われるわけですよ(笑)。それで阿波踊り当日、参加者募集のチラシを配って、その翌年に初めて出場しました。大変でしたけど、すごく感動しましたね。やってよかったと思いました」
阿波おどりでふるさと作り
越谷ではポラスグループを通じて家を購入した顧客が連に入るケースもあるという。新住民にとってはいきなり自治会や町会に入るのはなかなかハードルが高く、そのため地元の祭りや盆踊りでは蚊帳の外に置かれることも多い。
だが、連に入ることは地域コミュニティーに関わるきっかけともなる。『南越谷阿波踊り』は分断されがちな旧住民と新住民のコミュニティーを結びつけ、共通の「ふるさと」を創出するという役割も果たしているのだ。
一方、ポラスグループとしては、阿波踊りは地域に対する貢献・恩返しであると同時に、会社と地域を結ぶ手段にもなった。
「われわれは住宅会社として、普段の業務のなかでも生活の基盤づくりをしてると思うんです。そういう意味では、創業者が提唱していた『阿波踊りを通じたふるさとづくり』という考えと通じるものがあると思うんですね。当社にとっても阿波踊りは大事な行事なんです。創業者は生前、『たとえ会社がつぶれても阿波踊りはつぶさせない』と言ってましたから(笑)」
35回目を迎えた今年の来場者数は、3日間で約78万人に達した。主催は商工会議所など地元住民で構成される南越谷阿波踊り実行委員会と、運営面を担う一般社団法人南越谷阿波踊り振興会。青栁は「弊社の発案で始まったものではあるんですが、あくまでも地域のお祭り。ポラスは支援をしながら、当日の運営などにもスタッフとして関わっているんです」と話す。
舞台踊りの様子
正調連が集まる、二拍子の楽園
南越谷阿波踊りは3種類の舞台が用意されている。一つは4本の目抜き通りで行われる「流し踊り」、もう一つは2カ所のオープンエアの舞台で披露される「組踊り」、そして大規模な公共ホールで行われる「舞台踊り」だ。徳島からは本場でもトップレベルの「有名連」が招待連として参加し、舞台芸能としての阿波踊りの魅力を堪能することができる。
2019年は5年に1回の記念企画として、地元連の選りすぐりのメンバー77人による選抜連の演舞も。まさに南越谷オールスターともいえるメンバーのパフォーマンスには圧倒されたが、なによりも驚かされたのは、巨大なホールがほぼ満席で、立ち見客も出るほどの盛況ぶりだったということだ。会場内に渦巻く熱気からは、阿波踊りに対する市民の関心の高さも感じられた。
今年は叡明高等学校(越谷市レイクタウン)の連も初めて単独で参加するなど、新しい連も着実に増えている。こちらでは生徒たちに混じって、先生が鳴り物を担当。立ち上げたばかりの連らしいフレッシュな演舞を披露してくれた。
踊りのスタイルという点でも、『南越谷阿波踊り』は注目すべき特徴がある。演舞を披露する連のほとんどが正調連ということだ。阿波踊りのスタイルはざっくりいって2種類あり、一般的によく知られている「チャンカチャンカ」という二拍子のリズムを軸とする正調連に加え、近年は「ドカドカドカ」と速いテンポを叩き出す連(「一拍子系」や「路上系」などとも呼ばれる)が増加している。
南越谷阿波踊りはそのなかでもゆったりとした正調連にこだわっており、地元連の多くはベーシックな二拍子にこだわりを持っている。先述したように、今年は3日間で78万人が押し寄せたが、町の作りが比較的広々としているため、それほど混雑しているわけではない。余裕をもって阿波踊りのオーセンティックな味わいを堪能することができるのは、南越谷阿波踊りならではのポイントだろう。
新越谷駅から東京スカイツリーと隣接する押上駅までは、東武伊勢崎線でわずか25分。来年の夏は、知る人ぞ知る「二拍子の楽園」、南越谷に足を運んでみるのはいかがだろうか。
『南越谷阿波踊り』の詳しい情報はこちら
大石始
地域と風土をテーマとする文筆家。 旅と祭りの編集プロダクション「B.O.N」。著書に「南洋のソングライン」「盆踊りの戦後史」「奥東京人に会いに行く」「ニッポンのマツリズム」「ニッポン大音頭時代』など。2024年5月に最新刊「異界にふれる ニッポンの祭り紀行」(産業編集センター)が刊行された。
2017年8月30日(水)、31日(木)、晩夏の錦糸町で『第36回すみだ錦糸町河内音頭大盆踊り』が開催された。1982年に本場大阪から錦糸町に持ち込まれた河内音頭。現在では高架下を会場に2日間で3万人を集める大型「フェスティバル」となった。地元民はもとより、グルーヴのある音楽や高揚感あふれる空間に魅了された人々が日本中から集まってくる。伝説の河内音頭シンガー、ジェームス・ボン(James Bong)が登場するなど、今年も大いに盛り上がった会場を写真で振り返ってみよう。 タイムアウト東京では『第36回すみだ錦糸町河内音頭大盆踊り』のムービーレポートを動画ガイドの「PLAY TOKYO」と共同で制作。『YouTube』上で公開中だ。
DJが国産の音楽をプレイすること、それがすなわちクラブミュージックのいちジャンルとしての「和モノ」である。地方の民謡や音頭から、演歌、昭和歌謡、アイドルソング、ニューミュージック、シティポップ、Jポップまで、和モノの範疇はそれらすべてを指す。 近年、海外のDJやレコードバイヤーの間で和モノの人気が高まっているという話を頻繁に耳にするようになった。と同時に、『和ラダイスガラージ』(ExT Recordingsの永田一直が主宰する和モノイベント。「激安昭和国産音源のみでパラダイスガラージに肉迫せんと試みる」ことを標榜する)周辺の尋常ならざる盛り上がりを伝え聞くうち、自分は和モノを勘違いしていた、もといなめていたのかもしれない、という焦りに近い予感を覚えた。 果たして、その後に体験した永田一直や、本記事の主役である珍盤亭娯楽師匠のプレイによって脳内は和モノインベイジョン状態に。取るに足らないとされていたレコードに新たな解釈を加え、見たこともない地平を見せる、まさにDJのマジカルな魅力、その王道を体験したのだ。 本記事では、クラブを飛び出し、祭りからロックフェスティバル、レイヴまで、和モノ以外のシーンにも着実に食い込み、強烈なパフォーマンスでその名を轟かすDJ、珍盤亭娯楽師匠にその背景と活動の姿勢について話を聞いた。
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