大江ノ郷自然牧場
Photo: Io Kawauchi小原利一郎
Photo: Io Kawauchi

鳥取の辺境リゾート「大江ノ郷自然牧場」に年間36万人が訪れる訳(前編)

NEXTOURISM、連載企画「観光新時代〜多様性を切り拓く挑戦者たち〜」第3弾

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鳥取東部の大自然の中にある、食と体験が楽しめる複合施設「大江ノ郷自然牧場」。ブランド卵「天美卵(てんびらん)」を使用した自然派メニューが揃うカフェやレストラン、食育体験教室などを展開している。

10年前は観光客が一人もいなかった土地だが、今では年間約36万人が訪れる場所へと変貌した。鳥取の辺ぴな地にあるナチュラルリゾート。一体どのようなことが多くの人を引きつけているのか。同施設を手がけたひよこカンパニーの創業者、小原利一郎に話を聞く。

なお当記事は、一般社団法人日本地域国際化推進機構が提唱する「観光新時代」(NEXTOURISM)を実際に体現している取り組みを、全国のさまざまな地域から取り上げる連載企画「観光新時代〜多様性を切り拓く挑戦者たち〜」から転載したものである。

同連載の企画・取材・執筆は、ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀(まれ)な人」を追う「稀人ハンター」こと川内イオが担当。川内は、書籍「農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦」(2019年、文春新書)を皮切りに、農業や食の領域を中心に、既成概念に捉われない、多様化する担い手たちやビジネスの在り方を紹介しており、その視点は観光領域において、観光の多様化に着目してきた機構の活動と重なっている。

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鳥取の中でも1、2を争う辺ぴな立地

よく晴れた水曜日の午前11時ごろ、二人の男性がパンケーキを頬張っていた。私服姿の30代から40代で、離れた席に座っているからどちらも1人で来たのだろう。広々とした店内を見渡すと、女性のグループやファミリー、カップルもいて、ほとんどがパンケーキを食べている。

東京の人気カフェなら珍しい光景ではないかもしれない。しかし、この店の立地を考えると、客を引きつける吸引力に驚かされる。ここは、養鶏を手がける大江ノ郷自然牧場が運営する「ココガーデンカフェ」。カフェのある八頭町大江地区は鳥取空港から車で30分ほどの距離で、高速道路を下りてからはひたすら田園風景が続く。本当にこの道で合っているのかと不安に思いながら、里山に囲まれたのどかな県道を進むと、高台に2棟の近代的な建物が現れる。

1棟がココガーデンカフェで、もう1棟は1階にパン屋、ジェラート屋、うどん屋などが軒を連ね、2階にオムライスやパスタ、肉と魚料理などを提供するレストランが入る「大江ノ郷ヴィレッジ」。この2棟と、別の場所にある宿「オオエ・バレー・ステイ(​OOE VALLEY STAY​)」を合わせて、大江ノ郷リゾートと言う。

ちなみに、この県道の先は行き止まり。このエリアに住んでいるか、特別な用事がある人以外は通ることのない道と言ってもいいだろう。大江ノ郷自然牧場を運営するひよこカンパニーの小原は朗らかに笑う。

「鳥取の中でも1、2を争うくらい辺ぴな立地なんです。こんな所で
商売するなんて、頭がおかしいと思われるぐらいの場所ですね」

目に入るのは山と田んぼ、畑ばかりだが、最大で年間36万人が大江ノ郷リゾートを訪れる。その秘密を探りに、現地を訪ねた。

手遅れだった就職活動

小原は1965年、鳥取市内で生まれた。父親は、全国的に名を知られる規模の養鶏業を営む経営者だった。しかし、小原は小学校から高校まで野球に夢中で、父の仕事にそれほど関心を持たないまま育った。

父は教育熱心で、高校を出たら就職したいという息子に、強く大学進学を勧めた。まったく受験勉強をしていなかった小原は、「早く社会に出たい」という思いもあり、2年間、京都にある専門学校に通うことで納得してもらった。

その2年間は、アルバイトに明け暮れた。京都のイオンで販売の仕事をしていた時、思いのほか性に合っているように感じた。京都に来て以来、故郷のおいしい水と食べ物を恋しく思っていたため、卒業したら実家に戻って鳥取市内の百貨店で働こうと考えた。ある日、思い切ってその百貨店に電話をかけたら、すでに手遅れだった。

「採用試験はもう終わりましたよ」

鳥取市内には、百貨店が1軒しかない。ほかにやりたい仕事も浮かばなかった小原は、「申し訳ないけど働かせて」と父に頭を下げた。

次の日、小原は山奥にいた。輸入した鶏には2週間の検疫期間が必要で、人里離れた鶏舎に隔離される。父親からの指示で、その鶏の面倒を見ることになったのだ。家業の手伝いをしたこともなかった小原は、やるべきことを教わった後、山奥にこもった。人間同士の接触も最低限にとどめる必要があり、届けられた食事を一人で食べた。社会人としての第一歩は、鶏とじっくり向き合うことから始まった。
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父の会社を辞めた理由

一般的に、養鶏業は鶏の数を増やしてたくさん卵を産ませ、1個当たりのコストを下げることで利益を出す薄利多売の商売だ。たくさんの鶏を飼うために、日本では「ケージ飼い」が広く採用されている。ケージとは鳥かごのことで、狭いケージを並べ、積み上げて、鶏を飼育する。父の会社も取り入れているそのケージ飼いに、小原は次第に疑問を抱くようになっていた。

「僕一人で、13万羽の鶏の世話をしていました。機械で自動化されているので、一人でも大丈夫なんです。でも、やることは機械のメンテナンスとかで、鶏を飼っている気がしない。それはどうなのか、これをずっと続けていくのかと思ったら嫌になっちゃったんです」

小原には、忘れられない光景があった。鶏舎から鶏が逃げ出した時のこと。すばっしこくてなかなか捕まえられず、しばらく放っておくことにした。すると、鶏が地面をついばみながら、あちこちを歩き始めた。その自然な姿を見て、「すごくいいな」と感じた。このように、鶏を地面に放して飼うことを「平飼い」という。

ちょうどその頃、平飼いをしている養鶏家がテレビで取り上げられていたこともあり、小原は「平飼いをしたい」と父に訴えた。父は理解を示したものの、実現はしなかった。

ケージを何段も積み重ねるケージ飼いと比べると、同じスペースで平飼いできる鶏の数は激減する。その分、卵1個当たりのコストが高くなるからだ。ケージ飼いの安い卵は農協や問屋にまとめて卸すルートがあるが、高値がつく平飼い卵の売り先もない。現実を突きつけられた小原は、「もう養鶏はやめよう」と6年働いた父の会社を辞めた。

1,200万円借金して起業

1991年、故郷を離れた小原は、兵庫県にあるひな鶏の販売会社に転職した。その会社での出会いが、人生を変える。

「営業先にはケージ飼いしている人も平飼いしている人もいたのですが、卵を自分たちで売っている人が多かったんです。しかも、その人たちは規模を追わず、少ない鶏の数で質の高い卵にいい価格をつけて売っていました。どこも経営状態が良くて、すごく自由な感じがしましたね」

平飼いは難しいと思っていた小原は、目が開かれる思いがした。「自分にもできるかもしれない」という思いが、ふつふつと湧いてくる。思い余って営業先で相談すると、「小原君ならできるよ!」と背中を押されて、腹をくくった。

平飼いを始めるには、広い土地が必要だ。「定年まで働こうと思っていた」という会社を1年半で退職し、再び土地勘のある鳥取に戻った。いくつかの候補地を検討する中で、小原が選んだのが八頭町大江地区。祖父の家があり、子どもの頃、親に連れられてよく遊びに来た土地で、「自然がいっぱいで、水がおいしい」と好印象を持っていた。たまたま祖父の家の近くにかつて養鶏をしていた人の土地が空いていたこともあり、そこを借りることにした。

平飼いを始めるには、鶏舎を建てて、鶏を仕入れなくてはいけない。小原は鳥取県が実施している農業者育成事業から無利子で1,200万円を借り、2000羽の鶏を購入。1994年、29歳の時に「大江ノ郷自然牧場」をオープンし、朝採れの新鮮卵だけを扱う通販事業を始めた。

いきなり1,200万円の借金を背負ってのスタートだったが、小原は静かに燃えていた。

「高校の頃、同じ野球部だった親友が、独立して自分で事業をやりたいといつも言っていたんです。彼は野球部のトップスターで人として憧れていたので、彼に感化されて、僕もいつか自分で事業をやろうと思っていましたから」

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1個100円、「天美卵」の誕生

県から借りた1,200万円は、10年間かけて返す契約だった。利子はつかないので、毎月10万円の返済になる。それで大丈夫だろうと思っていたもくろみが、甘かった。

養鶏業では、病気を防ぐために抗生物質を与えたり、飼料に添加物を加えるのは、当たり前に行われている。小原はその常識を無視し、国産のトウモロコシや米ぬか、海藻、カニ殻、魚粉など20種類以上の天然飼料だけを与えて、鶏を伸び伸びと健康的に育てた。その卵に「天美卵」と命名し、1個100円の値をつけた。その頃、スーパーで売られている卵は1個10円程度。10倍の価格をつけたのには、理由がある。

「父の下で働いていた頃から、養鶏業の構造っておかしいなと思っていました。どういう飼料を使うか、どう育てるかに関係なく、農協や問屋に持っていくと1キロいくらの世界なんです。それだと、丁寧に手をかける人が損をしますよね。だから自分の卵の価値は自分で決めようと思って、1個100円にしました。そこから逆算して、飼料代を何割にすると決めて、その割合の中で使う飼料を決めました。すごく高価な飼料なので、妥当な金額だと思っていました」

その天美卵が、まったく売れなかったのだ。それでも、毎月の返済は迫る。昼間は鶏を見なくてはいけないので、小原は夜、市内のホテルで配膳のアルバイトをして、借金を返した。何とかして存在を知ってもらおうと、思い切って郵便局の「ふるさと小包」という通販カタログに広告を出したら、10件しか注文がこなかった。

売れ残った卵は、「捨てるぐらいなら、食べてもらおう」と近隣を訪ね、卵の説明をしながら無料で配り歩いた。この「自分が作った卵を捨てたくない」という強い思いからの行動が、突破口を開く。卵を食べた多くの人たちが、「おいしいから」と購入してくれるようになったのだ。その上、知り合いも紹介してくれた。

創業から1年たつ頃には、アルバイトをせず、「天美卵」の売上だけで食べていけるようになった。飼育、採卵、配達、配送全ての仕事を一人で担っていたから、休日はゼロ。それでも「何のストレスもなかった」と振り返る。

「驚いたのは、お客さんからお礼の手紙が届くんですよ。それがもう本当にうれしくて。だって、卵の卸をしている時は、卸先から『安くせえ!』と言われたり、こっちが頭を下げて買ってもらう状況でしょう。その卵と比べると何倍も高い卵を買っていただいて、そのお客さんからお礼が来るっていうのはね。その時に、ありがとうって言われる仕事っていいなと思いました」

勝算なきスイーツ店

5年目、雑誌「dancyu(ダンチュウ)」の取り寄せ特集に掲載されると、1日100件もの問い合わせが殺到。これを機にさまざまなメディアで取り上げられるようになり、卵が届くまで数カ月待ちの客が出るようになった。

リピート率は、80%を超えた。

鶏を少しずつ増やしながら経営が安定してくると、小原は創業時から思い描いていた「放し飼いの鶏と触れ合える牧場」を作るために動き始めた。

もっと広い場所に移り、観光牧場にしようという計画だ。ところが、養鶏業は鳴き声や排せつ物の臭いなどを敬遠する人が多いため、土地を売ってくれる人がなかなか見当たらない。

そうこうしていた2004年、山口・大分・京都で発生した鳥インフルエンザによって、観光牧場プロジェクトは頓挫する。鳥インフルエンザのウイルスが人間に感染しないよう、接触を避けることが推奨されるようになったのだ。

観光牧場を諦めた小原は、「それなら、天美卵の味をもっとたくさんの人に知ってほしい。人が来てくれる場所を作ろう」と方針変更。現在のココガーデンカフェと大江ノ郷ヴィレッジがある高台の土地を手に入れて、2008年、小さなカフェを併設した牧場スイーツ専門店「ココガーデン」を開いた。

とはいえ、冒頭に記したように、八頭町の大江地区はへき地だ。「勝算があったんですか?」と尋ねたら、「ありません」と苦笑した。

「人に来てほしいっていう気持ちが一番にあったんです。それで、ここまで足を延ばしてもらうためには、人が好きなものがないといけないな、女の人はスイーツが好きだからスイーツがいいだろうと思って。あと、せっかくここまで来るんだったら、ちょっとお茶が飲めるところが必要だと思って、カフェを作ったんです」

スイーツが好きだったんですか?
 
「いえ、全然。まったくです」

特にスイーツ好きでもない小原が店とカフェを始めたのは、「スイーツがあったら喜ばれるだろう」というふんわりした理由だった。

後編へ続く。

川内イオ

稀人ハンター

1979年生まれ。ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。2006年から2010年までバルセロナ在住。全国に散らばる「稀人」に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に広く伝えることで「誰もが個性きらめく稀人になれる社会」を目指す。この目標を実現するために、2023年3月から、「稀人ハンタースクール」開校。全国に散らばる27人の1期生とともに、稀人の発掘を加速させる。近著に「稀食満面 そこにしかない『食の可能性』を巡る旅」(主婦の友社)。

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