しょうぶ学園
Photo: Io Kawauchi
Photo: Io Kawauchi

福祉施設を開いたら1万人がやってきた、しょうぶ学園の型破りな挑戦(前編)

NEXTOURISM、連載企画「観光新時代〜多様性を切り拓く挑戦者たち〜」第1弾

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鹿児島市内にある知的障がい者支援施設「しょうぶ学園」は、ケヤキの並木道を進むと現れる。晴れた日にはキラキラと木漏れ日が降り注ぐその道の先には緑豊かなキャンパスが広がり、さまざまな形の建物が並んでいる。

屋久島在住のアメリカ人建築家、ウィリアム・ブラワーのデザインよるもので、温かさと同時にワクワクするような遊び心を感じさせる。新型コロナウイルスのパンデミックが始まる前の2019年、約1万人がこの施設に訪れた。

なぜ、しょうぶ学園は多くの人を引きつけるのか。「常識」や「当たり前」を打ち破る、数々の挑戦について統括施設長の福森伸に話を聞いた。

なお当記事は、一般社団法人日本地域国際化推進機構の提唱する「観光新時代」(NEXTOURISM)を実際に体現している取り組みを全国のさまざまな地域から取り上げる連載企画「観光新時代〜多様性を切り拓く挑戦者たち〜」から転載したものである。

同連載の企画・取材・執筆は、ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンターこと川内イオが担当。川内は、書籍「農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦」(2019/文春新書)を皮切りに、農業や食の領域を中心に、既成概念に捉われない、多様化する担い手たちやビジネスのあり方を紹介してきており、その視点は、観光領域において、観光の多様化に着目してきた機構の活動と重なっている。

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カップルがデートに訪れる福祉施設

敷地内にはここで暮らす障がい者の居住棟のほか、施設の利用者が布や土、紙、木などを使って思い思いに手を動かす4つの工房、ギャラリー、オリジナルグッズのショップ、ベーカリー、そば屋(現在休業中)、イタリアンのレストラン、少し離れた場所には250席のキャパシティーを持つホールもある。

工房の見学には事前の申し込みが必要だが、一般の人も園内で飲食をしたり、ショップで買い物をしたり、ロバとヤギがいる芝生の中庭でくつろいだりするのは自由。ホールでは、アーティストの公演が開催されている。

全国的にも珍しい、地域に開かれたこの知的障がい者支援施設の特筆すべき点は、周囲に観光名所があるわけではないこと。来館した1万人にとって、しょうぶ学園は「目的地」なのだ。

両親が開いたこの施設で、前例のないアイデアを次々と実現してきた福森は、「僕にとっては奇跡です」と目を細める。

「ここには、若いカップルもよく来るんですよ。デートっていいところに連れて行こうと思うじゃないですか。そういう場所に選ばれるって、うれしいですよね。中には、結婚式で使う写真を撮りに来る人もいます。障がい者の支援施設として、これだけの人が訪ねてくるところは世界的にも珍しいんじゃないかな」

福森の無鉄砲な若者時代

しょうぶ学園は、新聞記者をしていた福森の父親と、障がいのある子どもの支援施設で働いていた母親が、1973年の春に開設した。同時期に中学校に入学した福森は、当時のことをよく覚えているという。

「学園の入り口にあるケヤキの並木は、もともと桜だったんです。ここが開く時に、親と一緒に桜の苗木を植えました。もう50年たってるからだいぶ枯れたけど、2、3本はまだ残ってますよ」

13歳だった福森は、両親が障がい者支援施設を始めたことに違和感を抱かなかった。というのも、小学1年生から6年生まで、学校帰りに母親が働いていた施設に寄り、そこで2、3時間、障がいのある子どもたちと遊んでから母親と帰宅していたからだ。障がい者と関わること、一緒に過ごすことは日常の出来事だった。

「母親が働いていたのは児童施設だけど、小学校高学年とか中学生ぐらいの人たちが多かったかな。皆、しんちゃんしんちゃんと言って、僕をかわいがってくれました。特に怖くもないし、世の中には障がいを持っている人たちがいるんだと普通に受け入れてましたね」

大学から東京に出た福森がしょうぶ学園に戻ってきたのは、1983年、24歳の時。そこに至るまでの無鉄砲な道のりは、施設で働き始めた後に起きた出来事を予感させる。

日本体育大学1年生の頃、ラグビー部で日本一になったものの、体育会気質と、そのままラグビー一本で生きていくことに疑問を抱き、翌年退部。残りの2年間は、アルバイトとサーフィンに明け暮れた。「もっと自由になりたい」と願った福森は、大学を卒業してすぐアメリカへ渡る。

ところが、英語がまったく話せず不自由を極め、結局1年で帰国して都内のカフェでアルバイトを始めた。そのフリーター時代に、現在の妻である順子と出会い、結婚を考えたのを機に帰郷する。

「大学を出てフリーターをしていたら、就職もしないのかって言われるんですよ。正社員になるのが当たり前の時代だったから、結婚するならちゃんとした職に就かなきゃなって」

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言えば通じる、話せば分かり合える?

福森が戻った頃のしょうぶ学園は、今とまったく違う方針で運営されていた。目標は「社会復帰」で、施設の利用者が企業に就職することが一つのゴール。大島紬(つむぎ)の織り、枕カバーを制作するなどの下請け作業を通して、できないことができるようになるためのトレーニングを行っていた。

その最初の一歩は、規律正しく生活・行動すること。「職員と利用者の関係は、指導者と生徒だった」と振り返る。

「人間は幅が広いものだと今はわかっているけど、その時はみんな同じだと思っていました。同じ人間だから言えば通じる、話せば分かり合えると思ってた。甘かったね」

この頃、父親から「寮と寮の間の渡り廊下が不便だから、すのこを作ってほしい」と頼まれたのがきっかけとなり、独学で木工を始める。「工房しょうぶ」と名付け、利用者2人と一緒に本棚や椅子などを作るようになった。

26歳の頃、日常の生活道具に価値を見いだす民藝運動の流れをくむ「松本民芸家具」の池田三四郎を訪ねた。その際、弟子に配っている2冊の冊子をもらい受ける。そこには「理屈の強い人ほど、美しさの問題は分からない」「子どもたちは感じるけど、大人は理解しようとするから実は分かっていない」「人間論こそ、真の世直しの思想である」といった内容のことが書かれていた。

福森はこの冊子を読み込み、何本も線を引いた。この言葉の意味を深く感じるようになるのは、もう少し後のことだ。

当時は施設利用者の「社会復帰」を目標にしており、工房しょうぶでも市販品と同じような商品を作ろうと四苦八苦していた。福森の熱血指導によって、確かに上達する。しかし、どう頑張っても健常者と同じレベルにはならない。木の器を木くずになるまで彫り続ける利用者を見て、がくぜんとしたこともあった。

自由の風を感じて

大きな転機となったのは、妻・順子の一言だ。福森の木工に続いて、順子は布の工房で利用者に縫製を教えるようになっていた。縫製の基本は、まっすぐに縫うこと。それができるようにといくら指導しても、ほとんどの利用者にとっては難しい作業だった。

試行錯誤が何年も続き、迎えた1990年代の初頭、順子が福森に言った。

「もう、無理じゃない?」

あまりにストレートな言葉に戸惑った福森が「じゃあ、どうするの?」と尋ねると、順子は「好きにさせてみたら? (糸と針を渡せば)手が動くんだから、やりたいということじゃないの?」と答えた。

ンの根性論で利用者の長を目していた福森にとって、それは目からうろこの考えだった。

しょうぶ学園では、1990年に陶芸、1993年に絵画・造形の工房も増設していた。順子の提案を機に、縫製の工房から「指導」を手放した。

それまで、何から何まで指示されていた利用者は当初、戸惑っていたそうだ。それでも「好きにしていいよ」と言い続けていたら、次第に夢中になって針を動かすようになっていったという。すると、それまで見たことのないような物が続々と出来上がってきた。

カラフルな糸を通した針を何度も何度も通して、糸が絡まり、もつれ、塊のようになっている布や、玉結びを数千個も連ねた糸。糸で「子ねこ」「ラジオ」「元気」など言葉を縫い付けた布など。

「これ、いいよね!」と喜ぶ順子に、福森は内心、「でも売れないよな」と思いつつも、心を揺さぶられた。かつて日本を飛び出し、アメリカに向かった時に求めた「自由」の風を、利用者の独創性から感じたのだ。

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アメリカで160点のシャツが完売

福森と順子、一職員が「利用者がるものって、かっこいいよね」としても、しょうぶ学園内に理解者は少なかった。「バカがなにってんだと、あきれられていたんじゃないですか」と笑いながら話す。

そのめたのなか、福森順子は布の工房の動を「イ・プロジクト」と名し、利用者のししていった。きがわったのは1996、利用者の作品が公募展したことだ。

それまで自分たちだけで「いい」と評価していたものが初めて外部で認められたことで、「やっぱり間違ってなかった」と自信を得ることにつながった。

このをきっかけに、しょうぶ学園は「アート」にかじってく。利用者は同じものをることができない。でも、アートであれば一つ一つが「作品」になる。ヌイ・プロジェクトの作品が少しずつ注目を集めるようになると、福森は下請けの仕事を減らしていった。

「福祉施設っていつも与えられる側だから、利用者もありがとうって言葉を言い慣れてるんです。僕らも社会からありがとうと言われたくて、作り出す側になることを目指しました。そのために、アートの要素を取り込んだしょうぶ学園のオリジナルの商品を作ろうと考えたんです」

中をしてくれたのは、武蔵野学の1999めて東京を行った、「シングルース」と3040チメートルやかな刺しゅうを施した布が2もあるとしたところ、「Tシャツにったらどうか?」とアバイスをけた。そのTシャツが話題ぶと、次に福森のアイデアでシャツに直接刺しゅうしたものを発表した。

このシャツの作品は、1999年に全国7カ所でを行った「アウトーアート全国」で光をび、2003年、アメリカ・オークランでのにつながった。このでは、160持っていったシャツが完売している。

後編はこちら

福森伸

「しょうぶ学園」統括施設長

1959年鹿児島県生まれ。1983年から「しょうぶ学園」に勤務。木材工芸デザインを独学し、「工房しょうぶ」を設立。音パフォーマンス「otto&orabu」、家具プロジェクト・食空間コーディネートなど「衣食住+コミュニケーション」をコンセプトに、工芸・芸術・音楽などを新しい「SHOBU STYLE」として、知的障がいのある人のさまざまな表現活動を通じて多岐にわたる社会とのコミュニケーション活動をプロデュースしている。

川内イオ

稀人ハンター

1979年生まれ。ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。2006年から10年までバルセロナ在住。全国に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に広く伝えることで「誰もが個性きらめく稀人になれる社会」を目指す。この目標を実現するために、2023年3月より、「稀人ハンタースクール」開校。全国に散らばる27人の一期生とともに、稀人の発掘を加速させる。近著に『稀食満面 そこにしかない「食の可能性」を巡る旅』(主婦の友社)。

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⼀般社団法⼈ ⽇本地域国際化推進機構

 2021年1⽉15日設⽴。地域の国際化を推進し、観光を通じて地域の魅⼒と価値を⾼め、地域経済及び地域社会の活性化、また、安全性を含めた地域の⽣活環境基盤の向上に貢献することを⽬的として活動している。

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