石川九楊インタビュー
Photo: Keisuke Tanigawa
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時代の言葉を書き続ける書家、インタビュー:石川九楊

過去最大規模の個展「石川九楊大全」への思いを語る

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「お願いだから、『書』というと、子どものお習字や書道展の作品を思い浮かべるのではなく、東アジアの文化文明の根底にあるものだというように考えてほしい」。そう話すのは、現代日本が誇る書家の石川九楊だ。2024年6月8日(土)から7月28日(日)まで「上野の森美術館」で開催される展覧会「石川九楊大全」の開幕を目前に、石川に話を聞いた。

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「遠くまで行くんだ」に込められた思い

6月8〜30日(日)の「【古典篇】遠くまで行くんだ」と、7月3日(水)〜28日の「【状況篇】言葉は雨のように降りそそいだ」の前・後期に分けて開催される「石川九楊大全」展は、「大全」の言葉通り、1945年生まれの石川による長きにわたる全仕事を振り返る展覧会だ。東京では、2017年に「上野の森美術館」で開催された「書だ!石川九楊」以来の大規模個展となる。

「『大全』というのは大げさに言っているのではなく、私の全ての作品を見てもらおうということです。展覧会では前半後半で作品を入れ替えて計300点ほどを紹介しますが、同時にカタログレゾネを刊行します。こちらには、1000点ほどの未発表作も含む約2000点、つまり僕が書いてきた作品のほぼ全部を掲載しています。展覧会場にもコーナーを設けて、このカタログレゾネの作品映像も併せて観ていただけるようにします」

石川九楊インタビューPhoto: Keisuke Tanigawa

終戦を控えた1945年1月、福井県に生まれた石川は、幼い頃から書に親しみ、多くの展覧会で入選を果たしてきた。京都大学法学部に進学後も書道部に入部し、それまでの書道とは異なる時代の表現としての「書」の在り方を模索する。白い紙に黒々とした墨で書くといった「書道的情緒」から距離を置き、田村隆一などの荒地派の詩人の作品や、歌謡曲の歌詞など、同時代のリアルな言葉を、どのように作品化するかということが常に試みられてきた。

一方で、1980年代以降は中国や日本の古典にも積極的に取り組むようになる。「カスレ」や「ニジミ」といった表現を徹底的に研究し、書的な書き方と同時にデザイン的な方向性も取り入れながら、独自の書表現を確立させていく。

石川九楊インタビュー「方丈記No.5」(1988年・1989年、109×90cm×2点、前期展示)

この時期の成果についても、本展の前期「【古典篇】遠くまで行くんだ」で多く紹介されることだろう。前期展のタイトルにある「遠くまで行くんだ」とは、同名の雑誌も刊行されるなど、1960年代によく聞かれたフレーズだが、同世代を代表する評論家で詩人の吉本隆明による1954年の詩「涙が涸れる」の一節でもある。古典を扱う展覧会のタイトルが、なぜ現代詩から引用されているのか。

「若い頃に『吉本隆明さんの詩を書きたい』と思って書こうとするんですけど、それまでの小・中・高校で教わってきた書道の書き方だと全然だめなんです。文字に言葉が乗らないから、これでは吉本さんの詩を辱めるだけだ、と。書道的な書き方に一つ一つ疑問符を付けて検討していかないといけないと考えました。書が持っている能力の限界を確かめるように。とにかく、すぐにはできない、古典に戻る必要がある、と。それで『遠くまで行く』わけです」

テロ、戦争……時代の言葉を書くということ

1980年代から90年代にかけては特に古典に取り組んでいた石川だが、その際においてもなお「時代の言葉を書く」ということが念頭にあったようだ。その「時代の言葉」を、より直接的に扱っているのが後期「【状況篇】言葉は雨のように降りそそいだ」である。石川30歳の作品「言葉は雨のように降りそそいだ 私訳イエス伝」(1975年)とタイトルを一にするが、学生時代にはキリスト教系の寮に暮らしたこともある石川は、イエスを題材にした作品も度々制作してきた。

書家としての石川の転機ともなった1972年の「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」と、その続編に当たる長さ85メートルの大作「エロイエロイラマサバクタニ又は死篇」(1980年)がその代表格だ。古典を扱う前期展に現代詩のフレーズが採用されたのと対照的に、最新作をも含む後期展には、古典回帰に至る前の1970年代に使われた言葉があてがわれている。石川にとって「時代の言葉を書く」とは、どういう意味を持つのか。

「究極的には、自分の書きたい言葉を書くということです。もちろん、それが俳句であってもいい。ただ私の場合は、時代との接点を持った言葉を書きたかったんです。生きた人間の表現としての。死んだ作品なら博物館に飾られるだけでいい。それとは違う、少しでも社会に傷を残すような、爪を立てるような表現です。書で社会に何か申し立てをするというようなことは、私の少し下の全学連世代なんかは、そんなことは無理だとやめてしまいました。私は古典に取り組んだりする中で、ひょっとしたら可能かもしれないと思いました。もしそれができたら、書というものは今なお生きている、と」

石川九楊インタビュー「もしおれが死んだら世界は和解してくれと書いた詩人が逝った──追悼吉本隆明」(2012年、60×95cm、後期展示)

古典回帰を経て、2000年代以降の石川の作品は、まさに書が今なお生きた表現であることを高らかに証明している。2001年に起きたアメリカ同時多発テロ事件、いわゆる「9.11」への反応として作られた「二〇〇一年九月十一日晴──垂直線と水平線の物語」(2002年)では初めて自作の詩を、2006年の「戦争という古代遺制」では初めて自らの手になる評論文を書として作品化した。本展にも、「『ヨーロッパ』の戦争のさなかに」など気になるタイトルの最新作が展示される予定だ。石川が本格的に書作を始めた時期と比べても、時代の様相は随分と変わってしまったように思う。そうした変化は書の表現にも影響を及ぼすのだろうか。

「表現は変わりましたね。筆先1ミリ以下で差し込んでいく、針を刺すような表現に。大ざっぱな方法では負けてしまう。蒸発してしまうんです。蟷螂の斧(とうろうのおの)か、ごまめの歯ぎしりかもしれませんが。少しでも傷跡を残さねばという気持ちで、細かいところでやれることをやっていくしかないなと考えています」

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身体中の全細胞が筆先に向けて配列を変える

まるで定規で引いたかのような細い直線が幾筋も走る、張り詰めた印象を与える紙面。「二〇一一年三月十一日雪──お台場原発爆発事件」(2012年)をはじめ、2000年代から2010年代にかけては、そういった鋭い社会批判をはらんだ作品群が目立つ。一方で、河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)の俳句を書いたシリーズ「河東碧梧桐一〇九句選」など、比較的柔らかな印象を与える近作も本展には出品される。

石川九楊インタビューPhoto: Keisuke Tanigawa

「最後はやっぱり人間を書きたいという気持ちがあり、河東碧梧桐を選びました。近代日本において、本当の意味で書家と呼べるのは2人だけです。一人が河東碧梧桐で、もう一人が副島種臣(そえじま・たねおみ)。片や俳人、片や政治家ですが。書道教室を開いて習字を教えるというのは、書道家であっても書家ではありません。書家というのは、書をもって何か社会にものを言った人のことです。その意味で別格の書家であるこの2人をとっかかりにして、まずは碧梧桐についての評論を書き、その中から自分なりに選んだものを書にしました」

一本の線から、書いた人物の思想や態度などさまざまなことが分かるという石川は、書作だけでなく書の評論でも多大な業績を残している。「サントリー学芸賞」を受賞した「書の終焉 近代書史論」(1990年、同朋舎出版)を皮切りに、2001年の「日本書史」(名古屋大学出版会)で「毎日出版文化賞」、2009年の「近代書史」(名古屋大学出版会)で「大佛次郎賞」と、受賞歴を眺めるだけでもその評価は一目瞭然だ。では、書作と書評とは石川の中でどういう関係にあるのか。

「作品を書くのと評論を書くのとでは、脳みその使う部分が違うのかもしれません。書を書くときはずっと書を書くという感じで、評論は書けません。評論を書いた後に書を書くときなども、1日か2日かはぐずぐずして、もうその日は墨を磨るだけで終わってしまう。反対に書から評論に向かう時も、原稿用紙を前に最初は落書きなんかしながら(笑)。原稿を書く時も歯を食いしばり、足の指先まで力を入れるようにして書いていますが、書を書く時は本当に全身で、筆触りの違いや極微の音を聞き分けながらでないと書けませんから。全細胞が筆先に向けて配列を変えているような。だから本当を言うと、評論は誰か学者の方にでもやってほしかったんです。それこそ書道史などは歴史家の方にでも。でも、この書はこう観たらいいということが分かるのに、誰もそれを書いている人がいない。だから私が書いているということです」

石川九楊インタビューPhoto: Keisuke Tanigawa

声の文明のヨーロッパ、文字の文明の東アジア

文学作品においても、原稿用紙に手書きで書かれた文字に、もうすでに「未然形の文学」が存在していると語る石川。2023年末に刊行された近著「悪筆論」(芸術新聞社)では、その観点から川端康成や岡本かの子、中上健次などの筆跡を読み解く。本展の関連イベントとしても、講演会「書は文学である」が7月7日(日)に予定されている。また、同じく関連イベントとして注目したいのが、「書は文学である」と同時に「書は音楽である」という石川の主張を体現する音楽会「書譜楽『歎異抄№18♪いはんや悪人をや♪』」だ。

石川九楊インタビューPhoto: Keisuke Tanigawa

6月14日(金)に開催予定の同イベントは、代表作「歎異抄№18」に書き込まれた筆の痕跡からさまざまなデータを計測し、数値化したものをそのまま一つの楽曲として演奏するもの。「電子音楽奏」と「弦楽四重奏」の異なる2つのバージョンが披露される。

「私は常々『東アジアの書とは、西洋における音楽芸術に匹敵するもの』と言ってきました。この演奏会はそのことを証明するものになるでしょう。書の音楽化ということについて最初に声をかけてくれたのは、音楽家の廣瀬量平さんでした。35年ほど前から計画していたのですが、廣瀬さんが亡くなってしまい、今回いよいよ実現します。書から音楽を取り出すというのは世界初の試みで、私自身どんなコンサートになるか全く分かりません」

どんなものになるか予想もつかないからこそ「楽しみ」だと話す石川。西洋の文化においてのクラシック音楽と同様のスケールと重要性を、東アジアで担っているのが、まさしく「書」なのだという。声の文化文明である西洋に対して、文字を基底にして発展してきた東アジアの文化文明を比較して、「だからヨーロッパの駅ピアノに相当するのが日本の駅では伝言板になるんです(笑)」と冗談めかして語る。

石川九楊インタビューPhoto: Keisuke Tanigawa

「西洋が声の文明というのは、文化文明が生じる現場というものが、舌と空気が触れ合い、声として言葉が発されるところにあるということです。東アジアでは、筆と紙が触れ合って、文字としての言葉が生み出されるところが文明の生まれる現場です。だから、『書』というものは文字を書く全ての人々に関わることなんですね。今回の展覧会では、私の原稿用紙の文字もご覧いただこうと考えています。日本文化の一番の根底に『書』があるということ、作品を観つつ、そういうことに思いを馳せていただく契機になればうれしいですね」

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前衛陶芸家集団として戦後に結成された走泥社(そうでいしゃ)の活動を検証する展覧会「走泥社再考 前衛陶芸が生まれた時代」が、虎ノ門の「菊池寛実記念 智美術館」で2024年9月1日(日)まで開催されている。展示は3章構成で、6月23日(日)までの前期に1章と2章を、7月5日(金)からの後期を3章として、前期と後期の各期にも展示替えを行う。

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