あいち

【連載第4回後編】検証:あいちトリエンナーレ——私たちはそこから何を学ぶことができるのか?

「関係性のアート」としての「不自由展」——結局、「不自由展」とは何だったのか

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「関係性のアート」としての「不自由展」

著者:太下義之 

-5. 「公共性」と「政治性」

次に「公共性」と「政治性」の関係について考察してみたい。例えば、中央政府や地方政府から公的な助成金を受けた展覧会において、政治的な表現のアート作品を展示することについて、どのように考えればよいのであろうか。これは、税金によって運営されるという点では、公立美術館での展示も同様の問題である。

この問題に関して、公立であるがゆえに検閲することは絶対に許されず、政治的な表現も含めて「表現の自由」である、という考え方はもちろんある。その一方で、こうした展示が、あたかも一方の政治的な主張に政府が肩入れしているように見えるという懸念もあるのではないか。

もしも、偏りと受け止める市民が出てきた場合、どのように対処すればいいのだろうか。両論併記すればよいのであろうか。そもそも、そのような両論の対立を提示・解決することがアートや文化施設の役割なのであろうか。それは政治や歴史学の役割ではないのか。

また例えば、歴史修正主義者のアーティストが、「従軍慰安婦は存在しなかった」という主張のアート作品を制作し、それが公立美術館に展示された場合を考えてみるとどうであろうか。この展示に対して、政府高官が「政治は文化に介入しない」と発言して、展示が継続された場合、これは「表現の自由」が守られたと評価できるのだろうか。これに対しては、社会的批判が生じるのではないか。

では、政治的には「中立性」を目指せばよいのであろうか。しかし、そもそも「中立性」という概念自体、理念としては存在するものの、現実世界への実装は極めて困難だろう。これに関連する論点となるが、公立美術館における宗教的中立性について、憲法学者の愛敬浩二氏は「キリスト教絵画を展示する場合は必ず、仏教絵画も展示すべき」(愛敬2017:225)なのかという痛烈な問いを発している。

一方、過去の展覧会において、政治的な理由によって美術館などから撤去された作品には、実はさまざまな事例がある。以下において、旧ソ連の「非公式芸術」とアイ・ウェイウェイの事例を紹介したい。

1962年に、当時のソビエト連邦の最高指導者フルシチョフがある抽象画展覧会を見た際に、「まるでロバの尻尾で描いた絵だ」と酷評したことで有名な「ロバの尻尾」事件以降、ソ連では前衛絵画は公式的には認められずに「非公式芸術」と位置付けられた(※24)。
(※24)鈴木正美(1996)「モスクワ・コンセプチュアリズムの美術」
そして、ソ連の次の最高指導者ブレジネフの時代、1974年に「ブルドーザー展覧会」と呼ばれる事件が起こる。この展覧会は、ソ連の非公式芸術の画家たちが当局の許可を得ずに開催した野外展覧会であった。これに対して政府は大量の警官を投入し、ブルドーザーと散水車によって展覧会を徹底的に破壊したことから「ブルドーザー展覧会」と呼ばれる (※25) 。

(※25)Artwords「ブルドーザー展覧会」

「表現の不自由」をコンセプトとするのであれば、この「ブルドーザー展覧会」の作品を資料展示すべきではなかったか。現代の観客の目には、独特のポップ・アートのように映るであろう、これらのアートが、かつてブルドーザーによる「検閲」を受けたという事実を知ることは、観客が、「検閲」という行為の愚かしさを理解することに貢献したはずである。

また、2011年に、自身のスタジオが政府によって取り壊された上、身柄を81日間も拘束されるという事態に見舞われた中国の現代美術作家、艾未未(アイ・ウェイウェイ;Ai Weiwei)氏の作品または資料を展示しても、「表現の不自由」という企画として面白い展覧会になったであろう。ちなみに、2015年10月に中国の習近平国家主席が初めて英国を訪問し、中国指導者としては初めて英議会で演説を行ったその期間中、ロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツでは、このアイ・ウェイウェイの大規模な展覧会が開催されていた。そして、その展示の中には、アイ・ウェイウェイ自信が中国当局に捕えられた体験をジオラマにした作品「S.A.C.R.E.D」も展示されていたのである。なお、ここに「中立性」という概念が存在しない点に留意すべきである。

その他として、北朝鮮における人権に関する国連調査委員会(COI)『北朝鮮における人権に関する国連調査委員会(COI)最終報告書』(2014)(※26)を読むと、北朝鮮における表現の自由への侵害は明白である。例えば、北朝鮮における「不自由な現」を展示すれば、その展示は、政治的なプロパガンダとは非難されなかったのではないか。

(※26)外務省(2014)『北朝鮮における人権に関する国連調査委員会(COI)最終報告書(仮訳)』

以上のように、「政治的」なアート作品を展示したとしても、政治的プロパガンダとは批判されなかった方法はいろいろと企画できたはずである。

『自由-交換』の「あとがき」で、訳者のコリン・コバヤシが、1993年にヴェネツィア・ビエンナーレで金獅子賞を獲得したハーケの "Germania" を見て衝撃を受けた様子を記述している。ちなみに、この "Germania" はビエンナーレのルーツがイタリアのファシズムにあることを示した作品であった。「このような表現が日本でも可能だろうか、と自問せざるを得なかった。とりわけ日本の美術界においては、政治に介入したり、政治的社会的要素が少しでも入ってくると、(中略)あるときは『火遊び』などと呼ばれ、ひどい場合には酷く下劣な過ちを犯したように非難される始末である」(コバヤシ1996:187)と述べているのは印象的である。

このテキストからも理解できるのは、日本におけるトリエンナーレなどの国際美術展が従来ほぼ一貫して、「非・政治的」であったということである。政治的なテーマを表現してきたアーティストは個々に存在しており、政治的な主張を含む作品を展示することはもちろん表現の自由として問題がないにも関わらずである。こうした日本の特殊な状況が浮き彫りとなった点も、今回のあいちトリエンナーレの「成果」であろう。

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「関係性のアート」としての「不自由展」——結局、「不自由展」とは何だったのか

-5. 「公共性」と「政治性」

次に「公共性」と「政治性」の関係について考察してみたい。たとえば、中央政府や地方政府から公的な助成金を受けた展覧会において、政治的な表現のアート作品を展示することについて、どのように考えればよいのであろうか。これは、税金によって運営されるという点では、公立美術館での展示も同様の問題である。

この問題に関して、公立であるがゆえに検閲することは絶対に許されず、政治的な表現も含めて「表現の自由」である、という考え方はもちろんある。その一方で、こうした展示が、あたかも一方の政治的な主張に政府が肩入れしているように見えるという懸念もあるのではないか。

  • アート

7. 副産物としての想定外の効果 

1. トリエンナーレの関係人口の増大

今回の第4回あいちトリエンナーレの来場者数は、過去最高の67万人となった。これはやはり同年イタリアで開催されていたヴェネツィア・ビエンナーレの60万人というデータを上回る来場者数であった。世界中でビエンナーレやトリエンナーレが多数開催されているが、この中で一番最も歴史があり、かつ最も権威のあるビエンナーレであるヴェネツィア・ビエンナーレよりも多くの来場者があったということは、あいちトリエンナーレが今までにないほど注目されたということであり、「不自由展」中止のもたらした想定外の効果であったと考えられる。

検証:あいちトリエンナーレ
検証:あいちトリエンナーレ

2019年に開催を終えたあいちトリエンナーレの『不自由展』を巡る一連の騒動について考える。文化政策研究者であり、あいちトリエンナーレのあり方検討委員会のメンバーの太下義之による考察を、全6回に分けて連載。

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