日本の美意識から生まれ、世界のコンテンポラリーダンスに多大な影響を与えた「舞踏」。その中心的な役割を担っているグループの1つが、1975年に結成され現在もパリ市立劇場を拠点に活動する山海塾だ。2017年11月には東京でも新国立劇場にて『海の賑わい 陸(オカ)の静寂―めぐり』の上演が控えている山海塾の、新しい世代のダンサーにタイムアウト東京は注目した。1984年生まれの舞踏家、石井則仁に聞く、山海塾との出会いやアートとビジネスの関係。
タイムアウト東京 > アート&カルチャー > もがき続ける88歳 ギリヤーク尼ヶ崎が考える人生、そして今後
テキスト:鷲見洋之
写真:豊嶋希沙、鷲見洋之
目を閉じて、90歳を目前にした自分を想像してみる。浮かんでくるのは、孫や飼い犬などに囲まれ、のどかに過ごす姿―。実際のところどうなるかは置いておいても、多くの人がこうした、人生の荒波をくぐり抜け、穏やかな境地に達した姿を思い描くのではないだろうか。
だが、今年米寿を迎えたこの大道芸人は違う。病に抗い、目の前の公演がうまくいくか戦々恐々としながらも、駆けつけてくれる人々のために必死に自分と向き合っている。ギリヤーク尼ヶ崎(88)は、荒波の真っただ中にいる。ファンのため、亡き母のため、日本のため、未だ踊り続けるギリヤークを突き動かすのは、大道芸人としての強烈なプロ意識だった。
秋恒例の新宿公演まで10日を切ったある日。ギリヤークは困っていた。
「もう、えらいこと派手に書いてくれちゃって。これ書かれちゃったから寝られないんだよ」。
取材の前日、ある新聞がギリヤークを特集し、「次回公演で新作を披露」などと大きく報じたことに焦っていたのだ。「『公演やるよ』って書くだけかと思ったんだけど…。これでやるしかなくなったね。もうこうなったら、誰も『念仏じょんがら*』も『じょんがら一代*』も見ないよ。みんな新作を見にくるんだよ」。
*いずれもギリヤークの代表的演目
泣き出しそうな声でそう嘆くが、その表情はどこか重圧を楽しんでいるようにも見える。
生きながらにしてすでに「伝説の大道芸人」と称えられるギリヤークは、38歳で銀座で踊り始めて以来、投げ銭ひとつで生計を立て、全国各地、パリ、アムステルダム、ロンドンなどあらゆる場所で舞を披露し続けてきた。国連主催のイベントでも踊ったし、ニューヨークの劇場に招かれワークショップも行った。
様々な著名人からも支持され、すでに大道芸人としての頂は極めたようにも思えるが、芸歴50周年の今年、新たな演目『果たし合い』を披露するのだという。
新作はまだ1パーセントのイメージ
『果たし合い』は、刀のつばを使い、刃先なしでチャンバラを演じる一人称の舞。ギリヤークと親交のある俳優 近藤正臣から、約50年前に「かっこいいから」とつばを借りたっきりになっていたため、「新たな踊りで近藤さんに恩返しをしたい」と、作り始めた。それにしても、なぜわざわざ新作を作るという「面倒なこと」を始めたのか。
「たしかに『慣れた演目でごまかしてやればいいのに』とか思うかもしれないよね。でも、僕は皆さんに食べさせてもらってきた。そのご恩返しもしたいんです。それを『果たし合い』に懸けているの。ちょっと調子が悪いからできない、ではダメなの」。
公演は間近だ。新作の進捗を聞いたところ、「100のうち、99はできていない」という答え。
思わず「え?」と聞き返してしまったが、本人は真剣な表情で続けた。「1パーセントのイメージしかない。だけどね、だけどね、本当のプロであれば、やる気や自信があればできるもんなんです。僕はできる方に懸けている。自分が何のために大道芸人をやってきたのか、その生き様を見せたいんです」。ひざをバシッと叩き、力強く語った。
近藤正臣から借りっぱなしになっていたつば。公演で愛用している木製の数珠は、近藤の母がくれたという
一流の能力が衰えてきてるんだよ
赤ふんどし姿になり、数珠を激しく振り回し、南無阿弥陀仏や母への思いを絶叫する。緩急豊かな動きや、多彩な表情から、その舞は「鬼の踊り」や「祈りの踊り」などと称されてきた。だが長年にわたり体を酷使し続けた代償は大きく、半月板は損傷し、胸にはペースメーカーが埋め込まれている。数年前からはパーキンソン病に罹患し、骨が変形し神経を圧迫する脊柱管狭窄症(せきちゅうかんきょうさくしょう)も患っていることが分かった。
ギリヤークは常々、「僕にとって踊ることは生きること」と語っている。その踊ることが、病によって次第に難しくなっていく。踊りに対するプロとしての強いこだわりと、それに追いつかない肉体。つまり、彼にとって、「生きること」が難しくなっている。この味わったことがないであろう大きな壁を、ギリヤークはどのように受け止め、乗り越えようとしているのだろう。
現在の特に大きな悩みは、頭痛と手のしびれだ。
「頭はズシンズシンと痛いし、1+1=2、2+2=4というように、物ごとをきっちりと整理できないの。体も自由に動いてくれなくて、立ち往生してしまうんだよ」。
また、大道芸人として満足にパフォーマンスができないことに苛立ちも感じている。
「踊りは即興ができないとダメなのに(できない)。スポーツと同じで、直感的に物事を決められる人が一流なの。一流と二流、三流の差というのは際立ってるの。でも、その一流の能力が衰えてきてるんだよ」。
黒子の紀あさと共に外出するギリヤーク(左)
みっともないかもしれないけど、なんとか踊れるから
パーキンソン病と診断された時は、「パーキンソンって、きっと外国の言葉だなあ」という程度で、全くピンとこなかったという。「なんかね、頭は痛いし、よだれが出てくるし、手が痺れてきてたから。意識が薄れ、思考力がなくなってくるの」と。
残酷な質問かもしれないと思いつつ、パーキンソン病は1000人に1人の病気と言われていることを伝え、その1人になったと知って何を思ったかと聞いた。するとギリヤークは、「1000人に1人なの」と驚き、20秒ほど黙り込んだ後、ゆっくりと口を開いた。
「ガンとどっちが嫌かと考えると、パーキンソン病の方がいいね。ガンだったら、きっと踊れないもの。パーキンソン病は、みっともないかもしれないけど、なんとかできるから」。
さらに、自らを奮い立たせるようにして続けた。
「でもそうなった時、何を頼りに生きるか。プロである以上やっていかないといけない。戦いなの。それが芸人ってもんなの」。その口調には、悲壮感が漂っていた。
新作『果たし合い』の衣装でポーズを決めるギリヤーク
今終わっても悔いはない
身内の早すぎる死や、俳優の夢の挫折、海外の見知らぬ土地での公演など、数多くの試練や困難を乗り越えてきたギリヤーク。この88年間の人生と、50年間の芸人生活を振り返り、今何を思うのか。
ギリヤークは、少し考えた後、「僕は、本当に人間らしく、自分の心に正直に生きてきました。『踊りを通して、みんなが元気になってくれたらいいな』と、必死になってやってきました。今終わっても悔いはないです」と回顧。
「昭和という時代を通じ、外国に日本の文化を伝えてきたという自負があります。パリとかニューヨークとかいろんなところで、金もない中で必死にやってきたんです。頭も良くないのに、身につけているものを武器に、日本人の誇りや文化を訴え、伝えてました」と、声を震わせて強調した。
2017年の公演の様子
うまく踊ることが全てじゃないんだね
病気が病気なだけに、加齢も考えると、踊れなくなる日は遠くないだろう。意外なことに、ギリヤークもそのことは素直に受け止めており、「あと2年。それが限度じゃないかな」と悟っている。「調子が悪いもの。注射をうっても効かないね。曲がった骨は元に戻らないんだよ」。
だが病気になったことで得られた、新たな発見もあると話す。
「こんな曲がった体で、どうしてお客さんが見にきてカンパをくれるのか、不思議なの。芸人というのは、うまく踊ることが全てじゃないんだね。魂の世界みたいなのがあるんだね」と、88歳になっても気づきを得たことに驚きの表情を浮かべる。
「あと2年が限度」とは言っても、決して悲観ばかりしているわけではない。ギリヤークには、やりたいことはまだまだあるようだ。「まだ生きて、本も出したい」と語り、さらに大きな目標もぶちあけた。
「僕ね、夢があるの。2020年に東京オリンピックがあるでしょ。だいたいこれまでの主催国は、聖火リレーの後に民謡とかのショーをやってるみたいだね。でも日本だと、阿波踊りとかねぶた祭りとか、まとめるの大変でしょ。だからね僕が、雪がかぶる富士山の麓でじょんがら一代を踊るの。そのために、まずはNHKの紅白歌合戦に出て踊って、人気を取らなきゃいけないと思ってるの。前座でいいから、やりたいなあって」。明るい声色に、筆者も少し安心した。
踊りを見守る大勢の人たち(2017年)
もし生まれ変わったら...
ギリヤークの黒子を務める紀あさが「お客さんは、投げ銭に『お金じゃない何か』を込めて投げてるみたいなんです」と語るように、彼の公演に集まる人々は、動きのキレの良さや、豊かな表情を見にきているわけではないように思える。
キレの良さで言えば、とうの昔に峠は超えていると言ってしまえるだろう。人々は、踊りを通し、弱さや不安、恐れ、悲しみから逃げることなく生きてきたギリヤークのひたむきな姿勢を感じ知り、自らと重ね合わせ、自分の人生について考えるのだろう。
最後に1つ、「生まれ変わったら何をしたいですか」と質問してみた。すると、白い入れ歯をのぞかせ、笑顔で答えてくれた。
「大道芸人やりたいね。今度は病気しないようにして」