DJ、レーベルオーナーとして世界中の優れた音楽をキュレーションし、全世界に向けて発信を続けるジャイルス・ピーターソン。キャリアのスタートとなった、ブラン・ニュー・ヘヴィーズやジャミロクワイといったアーティストをフックアップしアシッドジャズのムーブメントを広めた1980年代から30年以上の時が経ったが、その影響力は衰えることなく、むしろ拡大している。彼の現在の活動は、自身が主宰するレーベルBrownswood Recordingsの運営、そしてオンラインラジオ局のWORLDWIDE FMのディレクションが中心となっている。2016年に立ち上がったこのラジオ局のもとになっているのは、イギリスのBBC RADIO 1での番組として1998年にスタートした『WORLDWIDE』である。同番組は過去に日本のFMラジオ局でも再編集版が放送されてたので、聴いたことがある人も多いだろう。WORLDWIDE FMは、立ち上げの1年後にイギリスの権威のあるラジオアワード『ARIAS2017』で「ベスト・オンライン・ラジオ賞」を受賞している。 同局は、ロンドンを拠点にしながらも、世界各国を回って現地のDJやミュージシャンを招いた特別番組や公開生放送を実施するなど、オンラインならではの活動を行っており、音楽プラットフォームとしてのラジオの新しい可能性を切り開いている。そんな「音楽の伝道師」として傑出した存在である彼に、インターネット以降の時代における活動の仕方について、そして日本の音楽シーンについて話を聞いた。 テキスト:三木邦洋写真:中村悠希通訳:Emi Aoki
2019年10月、坂本慎太郎のアメリカツアーが行われた。ゆらゆら帝国を率いていた2000年代にも4度のアメリカ公演は行われていたが、当時はニューヨークやボストンなど東海岸の一部のみ。今回はロサンゼルス郊外の絶景を舞台に開催されるフェスティバル『Desert Daze』を皮切りに、サンフランシスコ、サンラファエル、シカゴ、ニューヨークと、北米大陸を横断するスケジュールが組まれた。
渡米すること自体、坂本自身にとってはゆらゆら帝国以来10年ぶり、ソロとしてはもちろん初めてとなる。バンドメンバーは、ソロでのライブ開始後から演奏を共にするベースのAYA(OOIOO)、ドラムスの菅沼雄太、そしてサックスの西内徹。PAは、ゆらゆら帝国からの坂本のライブを支えてきたサウンドエンジニア佐々木幸生が全会場を担当した。
左から、西内徹、AYA、坂本慎太郎、菅沼雄太
2017年10月、ドイツ東部のケルンで行われた『WEEKEND FEST』出演から始まった坂本のライブ活動。それまでかたくなにライブを拒んでいた坂本だが、このときのドイツ2公演(ケルン、ベルリン)以降、日本国内に限らず、中国、オランダ、イギリス、メキシコと、興味深いシチュエーションでのライブに臨んできた。
観客にとって、ある種のエキゾチックで見知らぬ存在としてステージに立っていた面もあるそうした土地に比べ、ゆらゆら帝国時代の坂本を少なからず知るアメリカのオーディエンスは、現在の坂本をどう聴き、どう見るのだろうか。また、坂本自身には今の自分と今のアメリカの関係性はどう映ったのだろうか。それを坂本自身の言葉で聞くべく、インタビューを行った。
「(アメリカの観客は)演奏にダイレクトに反応する感じはありましたね。例えば、(西内徹の)サックスソロでも、いいサックスを吹いた後は曲の途中でも拍手が来る。間奏部分で熱くなって、さらにもうひと回しあるぞというときにも『ウォー』と声が上がるとか。
今まで外国でやるときは、わりと僕を知らない人の前でやってて、演奏しながらつかんでいって最後にウケる、みたいなパターンが多かったんですけど、アメリカは最初から向こうがこちらの曲とかも知ってる感じがすごくしましたね。それは、ソロアルバムをOther MusicやMesh-keyといったレーベルで出してきたことの効果なのかな。あと、Spotifyみたいに昔とは違うメディアもできて、(自分の曲が)聴かれる機会も増えているんだなと思いました」
たしかに、10年前と現在の音楽聴取の状況を最も大きく変えたのは、SpotifyやApple Musicといったサブスクリプションサービスの台頭だ。
「10年前は実際に行ってライブをやるか、向こうのレーベルからリリースするか、でないと知られる方法がなかった。それに昔は、海外で人気がある日本人ってすごく変わってたり、極端な表現してる印象があったんです。
そういう中では、ゆらゆら帝国は歌詞があってメロディーがあってわりとオーソドックスなスタイルだったし、ソロになってからはさらに普通の日本語の曲になったと思ってたから、あんまり外国では受けないんじゃないかと感じてたんです。でも、最近のブームでもあるのかもしれないけど、普通に日本語で歌ってる歌が普通に聴かれるようになってきてるというのは実感してますね」
このアメリカツアーは2013年リリースのシングル『まともがわからない』が初めてライブで演奏されたが、初演が実現した背景にも、実はSpotifyのデータの後押しがあった。
「Spotifyの再生回数が、アメリカ含め世界であの曲が断トツで1位なんで、それでやってみたんです。去年中国に行ったときも『あの曲はやらないのか?』ってすごい言われました(注:当時、中国では同曲がエンディングテーマのドラマ『まほろ駅前番外地』が放映され、人気を博していた)。だけど、そのときはぜんぜん練習してなかったし、何回かスタジオでも試してたんですけど、ライブでほかの曲と並べたときにちょっと浮いてる感じもして『まだやんなくてもいいかな』とも思って」
原曲のイントロではピアノとエフェクトをかけたギターのフレーズが印象的だが、ライブでは西内のアイデアで、彼が振るタンバリンが絶妙なライブアレンジに一役買っていた。客席はどの会場でも大きく湧き、サビや「あーうー」の歌パートを合唱する声もあちこちから聴こえていた。
Great American Music Hallでのライブの様子
実はこのツアーの日程は、最初に大きなトラブルに見舞われていた。10月12日にかけて関東地方を直撃した台風19号により羽田、成田の両国際空港がストップし、あえなく『Desert Daze』出演がキャンセルとなったのだ。その後、サンフランシスコ公演から仕切り直しとなったものの、その行程もかなりの綱渡りだったという。
そんなハードルを乗り越えて、改めての「初日」となったサンフランシスコ公演。会場となるGreat American Music Hallは築100年を超える伝統のあるホールだった。
「すごく良いハコでしたね。演奏もしやすくて、お客さんもすごく盛り上がってて。サンフランシスコに着くまでが台風でいろいろトラブルあって大変だったんですけど、一発目のライブがすごい良かったんで、あそこで切り替わっていい感じになりました」
ゆらゆら帝国時代には訪れたことがなかったウエストコースト。サンフランシスコは前から一度来てみたかった街だったという。
「過去のサンフランシスコの文化を伝え聞いていて興味があったというのもあるし、知り合いからも10年くらい前ですけど『サンフランシスコはすごくいいよ』って話は聞いたんです。アメリカの中でもすごく狂った感じの人がいっぱいいる、って。今回泊まったホテルと会場まではテンダーロインっていうかなり荒廃した地区を歩いていかないといけなくて、最初は『うわー』と思いましたけど、わりとすぐに慣れました」
Terrapin Crossroadsでのライブの様子
このサンフランシスコと、車で40分ほど北上した街サンラファエルで行われた翌日のライブ(グレートフル・デッドのフィル・レッシュがオーナーのライブハウスTerrapin Crossroads)では、ニューヨークの伝説的なニューウェイヴ/アウトサイダー・アーティストであるゲイリー・ウィルソン(Gary Wilson)がオープニングアクトを務めた。坂本にとって、ゲイリーの参加はたってのリクエストでもあった。
「ゲイリーは近年もずっと作品を出してて、それが昔とぜんぜん変わらなくて全部良いんですよ。だから、ライブも良いだろうなと思ってましたし、実際にすごく良かったですね。あと、ステージを降りたら普通の人だったらちょっと嫌だなって思ってたけど、そこも一貫してずっと不思議な感じの人で、さすがだなと思いました。バンドのリハにもギリギリまで参加しなかったり、ちょっとロックスターっぽい感じを醸し出してました」
ツアーの後半、シカゴ、ニューヨークでのオープニングアクトは、新世代のブラジリアン・フォーク・アーティストとして注目を集めつつあるサンパウロ出身のセッサ(Sessa)が務めた。
「僕はセッサを全然知らなかったんですけど、今回のブッキングをしてくれた人からの推薦だったんです。いくつか候補の映像を送ってもらって、やっぱりセッサが一番かっこ良かった。編成(セッサ、パーカッション、女性コーラス3人)も面白かったですね。(坂本が新作に参加した)オ・テルノ(O Terno)とも友達だって言ってました」
ツアーの後半、シカゴ、ニューヨークとバンドの演奏はどんどん良くなっていった印象がある。とりわけシカゴのSubterraneanは今回最も小さいキャパのハコだったが(約350人)、演奏も音の鳴りもツアー中屈指の心地よさがあった。
その一方で、エコー感が少ないデッドな環境が今の坂本慎太郎のライブに合うのではないかといわれていたのが、ブルックリンのブッシュウィック地区に位置するElsewhere。DJセットにも対応し、約750人を収容する先鋭的なスペースだったが、ここでは音響面での思いがけない戸惑いもあったという。
Elsewhereでのライブの様子
「会場がすごいデッドで、なか音(ステージ上の音)がクリアに分離しすぎて不安になる音響だったんですよ。出音は佐々木さんがやってくれてるから大丈夫なんだろうけど、メンバーはなか音で演奏してるので、自然に聞こえた方がいいんですね。
このバンドはモニターにはボーカル以外は基本的に全く返さないでやってるから。(モニターに頼らないようにするために)メンバーの立ち位置をどこでもわりと厳密に統一してるんですよ。長年やってきて、なか音のバランスが結構大事だなと思ったし、基本の演奏は全部自分たちが立っている場所から聴こえてくる音を聞きながらやってるので、どこの国に行ってもそこまで変わらないんです」
それでも、最終日の演奏も充実したものだった。初日のサンフランシスコのアンコールで演奏された『小舟』と、最終日のニューヨークで演奏された『小舟』。同じ曲を同じように演奏したはずなのに、ツアーを通じて醸成された演奏の説得力なのか、あの静かな曲をニューヨークの観客は無言で真摯(しんし)に受け止めていた。坂本自身も、初ライブから現在まででの活動の中で、バンドとしての成長を実感しているようだ。
「去年、京都、大阪、高知でワンマンをやったときも、だんだん良くなっていったし、やっぱりツアーで回って演奏を重ねるとバンドは良くなるんだなとは思いますね。それに、普段もずっとバンドでスタジオに入っているので、前には出せなかった感じがだんだん出せるようになってきている。長くやらないと出せない感じというか。今はわりとその独特なノリがこのバンドで出せていると思うので、そこがなくならないように注意したいなと思ってます」
練習とライブを重ね、知らない土地で変わらないやり方を試す。単なる反復のようでいて、そこからしか生まれ得ないオリジナリティーがある。今の坂本慎太郎は、そういう形での「制作」を続けているのだと思う。だから、僕は彼らのライブを見続けるのがやめられない。
「まずはホッとしました」と、坂本はアメリカツアーを終えた感想を率直に語ったが、アメリカをワンマンで渡り切った手応えは、まんざらなものでもなさそうだ。きっとこれは次もあると期待してしまう。「みんなメンバーも年寄りだからね、あんまり過酷な行程のツアーとかはやりたくないですけどね」そう笑いながら付け加えるのも忘れなかった。