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テキスト:吉澤 朋
版画家の棟方志功の特別展「棟方志功と柳宗悦」が開催中の日本民藝館でこのほど、記念対談「なぜ民藝館に棟方が」が開催された。芸術性など意識せずに作られた民芸とは一見対極にあるような棟方の作品が、なぜ民藝館に置かれるのだろう。松井健(東京大学名誉教授)と石井頼子(棟方志功研究・学芸員)の対談が、その理由を明らかにしてくれた。
棟方の孫の石井からは、彼の生い立ちや、民芸運動創始者の一人で思想家の柳宗悦との出会い、そして民芸の思想に傾倒していく様子などが語られた。やはりどこか飛び抜けていた、棟方の人となりがよく分かる興味深い話ばかりだった。
20世紀初頭に広がった民芸運動は、壊れれば惜しまれることなく捨てられていた日常の雑器に美を見出した。いわば美意識のコペルニクス的転回だ。そして、いち早く棟方の才能を見抜いたのも柳である。
柳と棟方の関係については、よく知られているエピソードがある。棟方が故郷への思いの丈をぶつけて制作した版画屏風の大作に対して、柳は両端と中央付近にいる人物だけを残して摺(す)り直してほしいと依頼したという。そうした冷酷ともとれる要望には、自尊心を傷つけられるアーティストもいるかも知れない。だが、棟方は柳の判断には絶大な信頼を寄せていたそうだ。
自我が過剰に現れていないからこその美しさ
さて、冒頭の「なぜ民藝館に棟方が」という問いだ。柳の収集品の多くは「名もなき職人」による、刻印もされていないものだ。芸術品を作ろうとするのではなく、ただ伝統や用途に忠実に作られたものが、自我に捕らわれていない故にかえって類(たぐい)まれな美しさを見せることがあるというのは、柳らが世間に知らしめた1つの発見である。
「民芸」という言葉が広まるにつれ、作家の名前や個性が前に出ない、すなわち「無名性」こそが民芸の定義だという認識が広がったが、松井によればそれは後付けで、全体の一部を捉えただけに過ぎないという。「名もなき職人」であれば全てが美しくなるわけでは決してないと語った。
翻って、棟方の作品は、ひとめでそれと分かる個性の強いものではあるけれども、それが決して自意識の過剰な現れではないことに、その美しさの理由があるという。自我に縛られていない彼の作品には、名を残そうなどという意思は毛頭ない職人によって、ただ一心に作られた器や道具に通じる自由さがあるというのだ。
「私は自分の作るものに責任が持てません」という棟方の言葉は、無責任にも聞こえる。しかし、それこそが、個人の自己表現ではなく、背後にあるより大きな存在に突き動かされて棟方作品が生まれている証だ、と柳は説明したそうだ。
だからこそ柳は、迷いなく棟方作品を民藝館に招き入れたし、いま民藝館を訪れる私たちも違和感を感じないのは、建物からも、作品からも、自由な空気を感じるからだろう、と対談は結ばれた。
美の定義があれば、ものを選ぶのもアートを買うのも迷わなくて済むが、きっと窮屈に違いない。日々使われ、下手ものと呼ばれた名もない道具や器に美を見いだした柳と同じように、私たちももっと自由な目で、身の回りのものやアートなどに接していいはずだ。
特別展は3月25日(日)が最終日だが、200点ほどの棟方作品を所蔵する同館には、いつ訪れても、そのうちのどれかにはきっと出会えるだろう。