船曳建夫(ふなびきたけお)
1948年、東京生まれ。文化人類学者。1972年、東京大学教養学部教養学科卒。1982年、ケンブリッジ大学大学院社会人類学博士課程にて人類学博士号取得。1983年、東京大学教養学部講師、1994年に同教授、1996年には東京大学大学院総合文化研究科教授、2012年に同大学院を定年退官し、名誉教授となる。2017年1月には、高校生の頃から歌舞伎を観続けてきた著者が、いつかは歌舞伎を見たいと思っている人に向け、ガイドしているエッセイ集『歌舞伎に行こう!』(海竜社)を発売した。ほか、著書に『旅する知』など。
タイムアウト東京 > アート&カルチャー > 東京を創訳する > 東京を創訳する 第25回
今回は、天皇・皇族以外の「上流」について書こう。しかし、日本では天皇・皇族以外の「上流」は、ほとんど存在しない。理由ははっきりしていて、19世紀以降、明治維新と太平洋戦争の2回、「上流」が吹っ飛ばされたからだ。もちろん明治維新の後も、勝った薩摩・長州、延命した大名、公家は「華族」となっていたが、そうなっても英国貴族のような堅固な城や領地があるわけでもなく、大半の華族は一般人から尊敬されるような過去の功績もない。西洋の貴族制度に対応するためにでっち上げた「上流」だから、80年もしないうちに戦争でアメリカに負けてみれば、すべてガタガタになって、その華族たちも「私たちは上流です」と言い続ける度胸もないし、周りの人も聞いてやらない。
ただ、いつの時代にも金持ちはいる。その人たちの中には、戦後すぐに華族に取って代わり、「宮家」から邸宅を買い取り「プリンス」ホテルを始める、といったしたたかな成金もいた。その後も、高度成長期やバブル、ITバブルと、その都度、新興長者は生まれて、その人たちが擬似的に「上流」っぽくなっている。そうした金持ちや、2度吹っ飛ばされた中でも生き残った人たちが住んでいる場所を、ここでは「上流の場所」と呼ぶことにする。
外国に行くと、金持ちの住んでいるところを見たくなる。カリフォルニアのビバリーヒルズなどでは、観光ツアーもある。東京ではどこがそうなのだろう。ロンドンだとチェルシー、ケンジントンとか。パリだったら16区、シテ島、サン=ルイ島。東京の場合、「上流の場所」にふさわしい要素は3つあった。ひとつは、皇居に近いこと、2つ目は高台であること、3つ目は都市計画がほどこされていること。
一つ目の皇居の近くとは、江戸時代では大名、旗本にとって、城に何かあったらすぐ駆けつけられる利点があった。御三家や重要な大名の住まいであった紀尾井町(紀伊、尾張、井伊の三大名が住んでいた)とか、一番町から六番町までの直参の武士たちの「番町」※である。ロンドンのケンジントン宮殿やパリの大統領官邸、エリゼ宮の近くに高級な商業、住宅地域があるのと同じだ。ところが、いまや東京の人でも高級住宅地として、「番町」をイメージする人は少ない。明治維新以降、戦前まではお屋敷があったのだが、いまやあまりに手が届かない値段の場所になっていて、一軒家を建てるのは難しい。マンションだったらあるが、マンション住まいとしては近くに繁華街がない。国会や最高裁判所の近くに住んでいても、生活上楽しくも便利でもない。むしろ、後に述べるように、マンションだったら今時の成金は、六本木ヒルズあたりに住むわけだ。しかし、私たちが散歩するのにはこのあたり(番町)は雰囲気がある。国立劇場から、英国大使館の裏あたり、皇居に近づいたり離れたりしながら靖国神社まで歩いたりすると、東京の一面が分かるのでおススメする。
※番町:東京都千代田区の地域内区分のひとつ。
二つ目の「高台」には、やや知られている高級住宅地がある。松濤、元麻布、青山、高輪、御殿山、島津山、池田山。これらは、江戸時代は郊外であって、大名の上屋敷ではなく下屋敷が置かれていた。前にもこの連載で書いたが、東京はロンドンやパリと比べて、土地の起伏が多い。ローマみたいに丘があるのだ。当然、水はけのよい高台には上流の武士階級が、その下の方のじめじめしたところには、町人が住むことになる。いまでも住宅地として、丘の上と麓では雲泥の差がある。渋谷を例に取れば、いまの渋谷駅あたりは高台の松濤と青山の狭間にあって、戦後も数十年前までは、「下流」の空気感があった。しかし、渋谷の大再開発に見られるように、土木技術は、そうした「下流」っぽさを克服して、いまや、ますます東京の大中心地となろうとしている。ただし上流ではない。かといって下流でもない。「盛り場」である。ここで、上流の対になる物は、東京では「下流」ではないことが分かる。歴史的には、「上流」が吹っ飛ばされたと同時に、「下流」も変質してしまったのだ。このあたりはいずれ「下流」の回で書く。
3番目の「都市計画が施されていること」に当たる住宅地が、田園調布、成城などである。この二つの町の方が、「番町」はおろか松濤、元麻布などより、高級住宅地としての知名度は高いかもしれない。このふたつの住宅地は、戦前に近郊私鉄車線の事業の一環として売り出された。高台ではないが、元々開けた場所にあるので、駅前に立つと、空は広々として風通しがよく、生活道路も十分の幅があって碁盤目や放射状になっていて、居住空間としてのインフラは堅固である。戦前から「華族」というより「文化人」が住んでいるイメージで、いまでもその雰囲気はある。柳田国男という民俗学者が成城に移り住んだりしたわけだ。私鉄沿線には、その後も二子玉川駅付近、通称「にこたま(二子玉)」とか、何々が丘といった、田園調布などに比べると高級感は乏しいが、「都市計画が施されてい」てインフラが整備されている住宅地が、比較的高い水準の人々を引きつけてきた。
さて、こうしたところが「上流」の人が住む場所であるが、こうした3つの要素以外の、新たな上流居住地が現れた。すなわち、「超高級マンション」。具体的には、「六本木」と湾岸地域のことである。六本木の森ビルは、日本の「上流」の歴史にとって画期的だったかもしれない。新しく上流近辺に陣取ろうとしている人たちが、昔からの松濤や田園調布ではなく、「六本木ヒルズ」に象徴されるような、都心のマンションに住むのを選ぶようになった。「六本木ヒルズ」以外にも、マンションとその複合物で小さな町の規模となっているところが出てきている。六本木ヒルズよりも前に「広尾ガーデンプレイス」というのもあった。書き続けると不動産の宣伝めいてくるので、個別に挙げるのはこれくらいにするが、都心を離れて、いまや「湾岸」の名で呼ばれる、東京湾の埋め立て地一帯が先進的な住居地として現れてきている。広壮なマンションが次々に建っている。築地市場の跡地なども数十年後には魚河岸ではなく、上流居住地として知られるようになるかもしれない。
かくして、高級住宅地の変遷を述べてきたが、番町から湾岸へ、という方向性は東京という町の持つ基本的ダイナミズムに添っている。この連載の早い回で述べたように、江戸城の創建から始まって、江戸・東京の開発は、明暦の大火(1657年)における深川への地域拡張のごとく、土木技術が許せば海岸線の干拓へと進む。アメリカ合衆国の開拓の歴史が「西へ」であったように、東京は「海へ」なのである。そして、なるべくは中心である「御城(皇居)」からあまり離れたくない。だからオリンピックを期に、東京が再び湾岸を東京の処女地として開拓しようとしているのは、この町の持つ400年のリズムなのである。さて、その時「湾岸」の防災はどうなのだろう、という江戸の「大火の歴史」の現在については、別の回に。