田舎
Photo: tomasa(写真AC)
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東京を創訳する 第27回

文化人類学者、船曳建夫の古今東京探索 ~High Life - Low Life その4「豪族」~

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前回、第26回に「下流の人々」を書いてから、だいぶ時が流れた。その最後に上流の人としての「豪族」について書くことを予告した。それを書き終わったら、オリンピックの思い出話でもしようと思っていた。しかし、ぼやぼやしているうちに、コロナがやってきて、オリンピックを巡る世界も様変わりした。ドラマだったら「そしてXカ月後」と再開するのだが、1年半たっても一向にコロナは明けないし、オリンピックはいまひとつだ。ではコロナはワクチンに任せて、まずは「豪族」を書いてしまって、それから古今東京探索を続けよう。

日本のハイライフ(High Life)を営んでいる人は、東京などわずかの大都市では「ビジネスの成功者」であり、地方では「豪族」である。もちろんビジネスにも豪族にも学歴エリートや戦前からの華族などの閨閥(けいばつ)が絡んでくるが、ざっくり書けば日本の上流とは「都会のビジネスエリート vs 地方の豪族」となるだろう。

「豪族」とは、地方で「伝統的な権益」を守り続けている人々のことである。大小いろいろあって、小は神社の神主から、大は旧藩の「重臣」や大地主である。彼らは第二次世界大戦の大変革を、戦犯扱いされた財閥や成金といった都市の成功者よりもしぶとく生き残ることができた。そのポイントは、戦後の混乱時に元来浮き沈みのない「土地がらみの権益」を持っていて、派手なことをせずに最初の10年間を耐えることができたからである。金融資産はインフレに弱いが、土地は強い。

日本にはもともと古い豪族だった大名が300家以上あったのだが、殿様たちはだいたい東京に居を移してしまって、戦争で爵位(しゃくい)を失い、激変の東京で切り売り生活の果て、財産も減らしてしまった。「お殿様」ではなくむしろ地元に残っていた重臣や家老、御用商人の方がうまく立ち回れたのだ。

戦後最初の時期、地方に残っていた「豪族」にとっての権益はまず「政治」である。自分自身や手下を県政なり国政なりに立たせ、基盤を固める。その後、際だった「汚職」をするわけではなく、その政治のパイプを利用し、法にのっとった範囲内で、土木事業や放送事業などの「許認可」による権利を得て事業を始める。

土木事業は「地方」にとって戦後の復興期、その後の成長期においても、常に最ももうかる産業であった。右肩上がりの時は、インフラの向上は地方全体の活性化につながったので、「結果オーライ」であれば表立っては文句が付かない。互いが互いに目こぼしをしていれば、誰がどうもうけようと、自分にも少々甘い汁が回ってくる。それは上から下まで、日本列島民は同じ気持ちだ。

かくして土建国家ニッポンができた。許認可権が関わる仕事は全て、一度認可を受けて立ち上げれば、後は失敗しなければもうかる。土木関連以外で許認可が重要なものに放送事業がある。奇妙な現象だが、日本の都道府県全てに、まるで一村一品運動のように、新聞と放送がセットになった会社が一つある。一地域に一つの放送事業、というのを原則として始めたからだ。

もうかるので、後になって他の人たちも群がってきて、一県に2つ、3つあったりもするが、おおむねA県には「A新聞」と「Aテレビ」があるのが普通だ。新聞は戦前からあったが、戦後テレビが登場してその放送事業の許認可を取るべく、報道という意味では同じ新聞を核として、豪族が参入したのだ。

あるA県の人は全国紙と地方紙の「A新聞」、テレビは「Aテレビ」とNHKを見るという構図である。地方紙と地方局は作ってしまえば運営は簡単である。県庁と県警本部に記者を置いていれば、その地方の人が読みたいニュースはカバーできる。全国的なニュースと外信は、共同通信、時事通信から配信してもらえばいい。テレビも東京のキー局から人気番組を送ってもらい、あとはローカルな番組やニュースを流せばよいのだ。

こうしたことは、戦後日本では誰もが知っていたし、自分や自分の家族も一枚かんでいたらうまい汁を実感したところだろう(筆者はここで、優れた地方紙、例えば『秋田魁』を知らないわけではなく、こうした書き方は無礼に当たる恐れを抱きつつも、「地方豪族」という上流の人たちの構図を伝えることを優先させる)。

ここになぜ「豪族」が関わることができるのか。広い意味でのブランド力、「家系図」の力である。東京のビジネス成金とはそこが違う。東京の金持ちは金がなければ人が離れる。地方の豪族の金持ちは、家の内情がどんなに苦しくても、広い庭から大きな門を悠々と出て行けば立派に見える。当主にとって門を出ればそこには生まれ育った世界、昔からの人々との人間関係がある。

かくして混乱期にも忍耐心があれば対面を保ちやすく、その町にいる限り「有名」である。これまでも戦国時代だ、明治維新だ、とピンチはあったが、どうにかそうやって「豪族」として、「何々さんの家」としてやりくりしてきた、「派手」ではない「地味」に生きるサバイバルの心得である。

そこには心構えだけでなく実質的に下支えするものがある。親戚や縁戚のネットワーク、菩提(ぼだい)寺やこれまで寄付してきた神社、その家にまつわる昔からの手柄話的なエピソード、昔話。じたばたしてそれらを崩したら元も子もないが、そうしたネットワークと神話を保つことができれば、また世の栄枯盛衰は巡ってくる。

ごく最近の1945年の敗戦は、元家老であれ、大地主であれ大ピンチであった。インフレで手元の金は小さくなる、農地は奪われ、お宝や持ち物を売ろうにもマーケットが動かない。しかし最低限、ご先祖様の供養ができれば、生きている義務は果たせる。周りとの人間関係も崩れない、地元から受けていた尊敬もゼロにはならない。

ここで先に書いた「政治」の話しに戻るわけだ。戦後、このブランド力が、最初に機能したのが、民主主義における集票である。「東京」にいた金持ちや上流の人が足をすくわれた「戦犯」といった嫌疑にかからなかったということも大きかった。

政治でスタートして、土木事業と通信事業の許認可権で基盤を固めた、ということは分かりやすい。しかしその後、実は高度経済成長が猛烈な勢いで起こり、日本全体から見れば地方の「豪族」は世界の発展から遅れ、取り残された人たちであった。

豪族生まれの次男、三男が東京に出て、地元に残って後を継いだ長男を規模で追い越し、大いに留飲を下げた、ということもあったろう。しかしすでに言ったように、地方の豪族の基盤は「土地」がらみの権益である。「土地」に縛られているので中央の流れに取り残される弱みにもかかわらず、「土地」の堅固さがあるのだ。

マイナーな事業は中央からやってくる。ガソリンスタンド、ボーリング場、ゴルフ場。土地がらみであるがゆえに、そこにいなければ出来ない中央からのおこぼれがあり、それなりに家系図をつなげていくことが出来る。時には、高速道路や新幹線といった大きな公共事業がある。また、東京の金持ちにとっては「税金は払う」だけだが、地方の豪族には「税金は取る」ものでもある。チャンスがあれば、地方交付の「税金を使う」ことに知恵を発揮する。

それでも現在、地方の衰退というものは激しく、人口は激減し、代議士の椅子は減らされ、公共事業や交付金を取ろうとしても次第に「中央は金持ち、地方は貧しい」という図式自体が「日本全体が貧しい」となってしまい、その意味での地方のメリットは減っている。それにもかかわらず、地方における豪族の地位はそのまま減じるわけではないのだ。

この中で生き残ることのできる豪族は、戦後の75年間をサバイバルしたことで、日本全体の中で相対的には神話とオーラ、人間関係の厚みを増している。ジタバタしなければ次の大波に乗れるかもしれない。「人材」という資源は、中央から回帰してくる可能性がある。

長い間、世界との距離で中央に負けていたが、ネット社会では、情報へのアクセスによって、自分の造った酒を東京という中央を経由することなく、パリのレストランに売り込むこともできる。世界の潮流も「地方」であることが不利ではなくなっている。マイクロソフトの本社やアマゾン本社は、ニューヨークではなくどこにあってもかまわない。元々田舎の国であるドイツが、今ヨーロッパでどのような地位を占めているのかを見れば明らかだ。地方豪族にとって「地方」にいることは、「土地がらみ」の利権とその地域でダントツであることの優位性によって、21世紀でも有利をもたらすことになるだろう。

船曳建夫(ふなびき・たけお)
1948年、東京生まれ。文化人類学者。1972年、東京大学教養学部教養学科卒。1982年、ケンブリッジ大学大学院社会人類学博士課程にて人類学博士号取得。1983年、東京大学教養学部講師、1994年に同教授、1996年には東京大学大学院総合文化研究科教授、2012年に同大学院を定年退官し、名誉教授となる。2017年1月には、高校生の頃から歌舞伎を観続けてきた著者が、いつかは歌舞伎を見たいと思っている人に向けガイドしているエッセイ集『歌舞伎に行こう!』(海竜社)を発売した。ほか、著書に『旅する知』など。

  • Things to do
東京を創訳する 第26回
東京を創訳する 第26回

下流の人は日本にはいない。貧乏な人はいるし、この社会には貧困の問題がある。しかし、上流、下流の階層はなくなった。あえて言えば、日本人は今ではほとんど全て下流なのだ。

平安の昔、貴族はいた。江戸時代なら殿様や武士はいた。そんな身分は過去には日本列島に確かにあった。それは「上流」と呼んでいいだろう。しかし、前回と前々回に書いたように、いまや上流と言えるような人々は皇族とその周りだけである。明治維新、太平洋戦争、と100年もたたない間に2度も「上流」が吹っ飛ばされたことで変わった。「私は上流」と、今でも威張ったりするガッツのある人はいなくなった。江戸時代のように「私は下流だからお宅の玄関からは入れません、裏口から」とへりくだる人もいなくなった。

むしろ、例えば日本の研究者が初めてヨーロッパに行くと、イギリスの大学などで技術系のスタッフが「自分は偉い教授や本格的な研究者と『違う』から一緒には食事しない」と言ったりして、別のテーブルで固まっている。進んでいるはずのヨーロッパに、むしろ「階級社会」が残っているのにびっくりする。

だから、ここであえて「下流」と書くのは、むしろ「下流がいない日本」という社会を知ってもらおうと思ったからである。念のため繰り返しておくと、貧乏な人はいる。貧困は大きな社会問題である。しかし、日本は伝統を残している国ではあっても、そうした階級は残っていないのだ。

  • Things to do
東京を創訳する 第25回
東京を創訳する 第25回

今回は、天皇・皇族以外の「上流」について書こう。しかし、日本では天皇・皇族以外の「上流」は、ほとんど存在しない。理由ははっきりしていて、19世紀以降、明治維新と太平洋戦争の2回、「上流」が吹っ飛ばされたからだ。もちろん明治維新の後も、勝った薩摩・長州、延命した大名、公家は「華族」となっていたが、そうなっても英国貴族のような堅固な城や領地があるわけでもなく、大半の華族は一般人から尊敬されるような過去の功績もない。西洋の貴族制度に対応するためにでっち上げた「上流」だから、80年もしないうちに戦争でアメリカに負けてみれば、すべてガタガタになって、その華族たちも「私たちは上流です」と言い続ける度胸もないし、周りの人も聞いてやらない。 

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  • Things to do
東京を創訳する 第24回
東京を創訳する 第24回

旅行の一つの楽しみは、その土地の人との思い出深い交流である。ちょっとした買い物で店員としたやりとりや、食べ物屋で隣り合った地元の人との会話など、旧跡を訪ねた感動とは違うものがある。しかし、そうした普通の人との交流はできても、パリやニューヨークに行って、そこの「セレブ」やその生活を「観光」するのは難しい。それは無理に近い。

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