船曳建夫(ふなびきたけお)
1948年、東京生まれ。文化人類学者。1972年、東京大学教養学部教養学科卒。1982年、ケンブリッジ大学大学院社会人類学博士課程にて人類学博士号取得。1983年、東京大学教養学部講師、1994年に同教授、1996年には東京大学大学院総合文化研究科教授、2012年に同大学院を定年退官し、名誉教授となる。2017年1月には、高校生の頃から歌舞伎を観続けてきた著者が、いつかは歌舞伎を見たいと思っている人に向け、ガイドしているエッセイ集『歌舞伎に行こう!』(海竜社)を発売した。ほか、著書に『旅する知』など。
東京を訪れるベストシーズンは、5月から6月の初夏である。その理由は3つある。
第1に、気温は高いが盛夏の35度といった暑さではなく、風が吹けば心地良い、夜は時に肌寒くなるくらいの、温帯の夏である。旅行の装いも軽くなるし、身が軽ければ心も軽くなる。
第2に、昼間が長い。何十年もサマータイムの導入が叫ばれているがなかなか実現しない日本で、昼間(daytime)でもなく夜(night)でもない、宵(evening)の美しさと心地良さを味わえるのは、この時期だけである。灯刻となり、さて今から何を食べよう、どこに飲みに行こう、と考えるのは旅の大きな楽しみだが、初夏はそれをゆっくり算段することができる。夜が長いのだ。
第3が、意外に気づかれないのだが、旅行に最適なのに、その割にはすいている。4月は桜の狂想曲で、外からの旅行者よりもまず日本人が浮き足立っていて、どこに行っても混むし、気ぜわしい。桜に興味のある外国人旅行者だったらよいが、日本人の浮かれ具合に巻き込まれ、スケジュールが立てにくいのはやっかいだ。その桜が終わっても、4月末から5月第1週のゴールデンウィークという旅行シーズンが来る。この時期は、外国からの旅行者にとっては、興味深い行事や催しものがある訳ではない。ただ列車やホテルが取りにくくなるだけだから、避けた方がよい。
ゴールデンウィークが終わると、気温が高くてもあまり蒸さない、心地よき初夏が来る。この時期に日本を旅する楽しさを逃がす手はない。最近北米の旅先で聞いた話だが、日本に来て2週間くらいサイクリングをする、というツアーがあるようだ。少しハイエンドな感じだが、東京のホテルに集合し、飛行機で出発地点に向かう。自転車とそのガイドさんが待っており、サイクリング旅行が始まる。私の聞いた場所は、能登半島と瀬戸内である。その行程に老舗旅館や、美術館が組み入れられていて、元気で好奇心の旺盛なシニアにうってつけだろう。ゴルフもこの時期にプレーするのが最高だ。日本のゴルフ場は、その数が飽和状態にあることからさまざまな工夫がなされているところも多く、ハワイでのゴルフとは違った味わいのゴルフ旅行ができるだろう。
さて、話の焦点を東京に合わせると、私の初夏の好みは、ショウブと大相撲である。ショウブは堀切菖蒲園など名園が沢山あるようだが、それはタイムアウト東京でチェックするとして、個人的には明治神宮御苑が好きだ。6月の開花の時期をうまく見計らうと、鳥居をくぐって進む参道は木々の深い緑が美しく、小道に入ってからしばらくして、ふと現れる菖蒲園は、見渡す限り濃紺から白までさまざまな色が彩なす、大輪の花が満開となっているだろう。この時ばかりは薄曇りくらいがよく、雨が降っていたらそれはむしろ好都合、興を添える。その点は風と雨が大敵の桜と違って、水と縁あるショウブならではの持ち味かも知れない。
大相撲は行けばすぐに見られるものではない。東京の夏場所は、5月の15日間と限定されて、そもそもチケットが取りにくく、外国から訪れる観光客には難しい見物であろう。しかし、そう諦めたものでもない。両国の国技館に行くと、やってくる力士、「場所入り」をする相撲取りの姿を見ることができる。そのため国技館の周りには、ファンがたくさん群がっている。番付の下の方にいる若いのから、次第にランクが上の力士が現れ、最後は横綱である。そこに何時間もいるわけにもいかないので、小一時間くらいの見物を勧めるが、相撲取りは見ると聞くとでは大違いだ。単なる肥満の人とは大違いである。その若くはち切れた大きな姿を見るだけでも楽しい。そうやって鬢付け油の独特の臭いをかぐのも、一日の取り組みが終わった後の太鼓を聞くのも、もちろん、無料である。
「やはらかに 人分け行くや 勝角力(かちずもう)」高井几菫
勝ったお相撲さんのゆったりした感じと、剛力を柔らかく使いながら人の中をかき分けていく行く様が、美しく描かれている秀句だ。角力は季語として秋なのだそうだが、私には「夏」場所が相応しく思える。
角力は昼間のスポーツで、午後6時には終わる。さて、何を食べるか、何を飲むか。ちゃんこ鍋もよいし、都心のバーに行くのもよいだろう。初夏の夜はまだ長い。