当時の常識を覆した「広葉樹」の鎮守の森
──明治神宮の森が「人工の森」であることを知っている人は多いかもしれませんが、実はこの「森創り」が当時の常識を覆すような面白い計画だったんですよね。まずは中心となった3人の林学者のお話から聞かせていただけますか。
明治神宮の森は本多静六、本郷高徳、上原敬二という3人の林学者を中心に計画が進められていきました。本多さんは日本で最初に林学のドクトルをとったパイオニア的な人で、当時(明治時代)林学が盛んだったドイツに渡って、林学の知識や学問を日本に持ち帰ってきた人物です。
年齢が一回りずつ離れているこの3人は、当時、帝国大学農科大学の本多研究室で教授、講師、生徒という関係で、上原さんは当時まだ大学院生。こういう世代の違う3人が明治神宮の「森創り」計画をリードしていました。
──彼らは具体的にどのような計画で「森創り」を進めたのでしょうか。
まず、彼らの計画で画期的だったのは、今すぐに森を完成させようとしなかったことです。10年、50年、100年と時間をかけて樹木がこの地で自活し、100年をかけて自然の林相になることを目指しました。
当時、鎮守の森をつくるとなれば、針葉樹を用いるのが通例。しかし東京では針葉樹が育たない。そこで本多らが計画したのが、「この土地に根ざした森をつくる」ということでした。
この場所の気候、風土、土壌に最も適した木は何か。この土地にもともと根付いていたのはどんな植物だったのか。どのような樹木を選べば枯れることなく自活して自然の森になるのか......。生態学的な知見に基づいて考えていった末にたどり着いたのが、常緑広葉樹だったんです。
──ものすごく画期的な考えですね。しかし、鎮守の森といえば針葉樹でつくるのが当たり前とされていた当時、反対意見はなかったのでしょうか。
もちろん、「やぶのような森にするとは何事だ」なんて声も出たみたいですが、林学者らが科学的な調査・実験データなども出しながら説明をしたことや、年齢や立場に関係なく、皆が真剣に意見を戦わせたことによって、「理想の森」というものがだんだんと見えてきたのでしょう。
最終的には、常緑広葉樹を主林木にすることで決定。常緑広葉樹の木がまだ小さいうちは、成長が早い針葉樹(スギやヒノキ)で上部を守り、針葉樹が朽ちたら常緑広葉樹の栄養にする。常緑広葉樹が育ってドングリが実れば、その実が落ちることで次の世代も育つという、天然更新の発想で計画を立て、見事実現させました。
──今だと広葉樹を用いた鎮守の森も多いですが、明治神宮の森とも何か関係はありますか。
明治神宮の森をきっかけに、特定の樹木にとらわれるのではなく、気候や風土、土壌に根ざした森をつくろうという考え方が全国に広まったということは大きいと思います。広葉樹が適している土地もあれば、針葉樹が合う地もありますからね。
また、鎮守の森に限らず、本多らの考え方は数々の「森創り」に影響を与えていて、例えば、東京湾のごみ埋立地を森に変える「海の森」プロジェクトを指導した先生たちは、明治神宮の「森創り」がモデルだとおっしゃっています。約100年前に本多らが実現させた「森創り」は、今森をつくっている人々にとっても一つの理想の形になっているのだなと感じました。