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自然と人間の肯定のドラマを、ユーモラスに。狂言「鮎」レポート

2017年12月、国立能楽堂で初演

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テキスト:高橋彩子(演劇・舞踊ライター)

作家の池澤夏樹が執筆し、狂言師の野村萬斎が演出・補綴(ほてい)・主演した新作狂言『鮎』が2017年12月、国立能楽堂で初演された。池澤がかつて発表した短篇小説を狂言化した作品だ。同22日、夜の公演を観た。

物語の舞台は、手取川のほとりでアユを捕って暮らす才助(石田幸雄)が釣りに行く場面から始まる。手取川は汚れた人間界から離れた清流であり、そのほとりに住む才助ら人間も野心を持たず暮らしていることを語る才助。やがて川に住む大鮎(深田博治)と小鮎(月崎晴夫、高野和憲、内藤連、中村修一、飯田豪)が賑やかに現れ、1匹ずつ釣られていく。そこへ小吉(野村萬斎)が登場。村長の息子と喧嘩をした小吉は、多勢に無勢で血まみれ泥まみれとなり、ほうほうの体で才助のもとに逃げ込んできたのだ。顔を見るとその人の性格や将来がわかってしまう才助は、囲炉裏でアユを焼いて小吉に食べさせ、手取川で慎ましく暮らすよう勧めるが、小吉は聞き入れない。やむなく才助は、小吉を大きな宿屋に紹介。風呂焚(た)きとなった小吉は「忖度(そんたく)」に励みながら、下足番、番頭と出世し、ついに入り婿となって宿屋の主人の座に収まる。小吉の立場が変わるにつれて口調がみるみる変わっていったり、入り婿になる場面ではすかさず『高砂』が謡われ(当たり前だが巧い)たりと、出世の様子がコメディタッチでテンポよく表現されるのが楽しい。出世した小吉のもとに、才助は甥の弥吉(大鮎がふんする)を連れて行き、頼みごとをするが、小吉は一宿一飯の恩義も忘れて彼らに冷たく当たる。すると、まるでそれまでの出来事が夢であったかのように、全ては囲炉裏の景色に戻るのだったー。

提供:国立能楽堂

一見すると能『邯鄲(かんたん)』のような物語。手にした成功が強欲ゆえに消え去るという意味では、プーシキン『金の魚』のような童話も彷彿(ほうふつ)とさせるが、この作品はそれらとは少し趣が違う。最後、才助もアユも去り、1人取り残された小吉は「銭がほしい」「夢が見たい」と、どこまでも執着を見せるのだ。そこには小吉の人間臭さが描かれており、作品全体を人間肯定のドラマととらえることができるだろう。

アユたちの生き生きとした姿も印象的だ。飛び込み前転したり口を開けたり、列をなして1匹ずつ釣られたり。串刺しにされ、囲炉裏で焼かれても、どこまでも陽気な彼らは、アユとして生まれ、人に釣られたことをも肯定しているかのよう。おおらかに、ユーモアいっぱいに描かれる、自然界の食物連鎖。謡や舞でもって物語の進行も担うアユたちの「コロス」はダイナミックで、狂言らしい明るさや身体性に満ちていた。

文明批判や環境破壊への警鐘も読み取れる題材を、狂言の特性を活かしながら表した本作は、狂言の普遍性と尽きせぬ可能性を示すものとなっていた。

なお国立能楽堂では今後も、外国人に向けた公演などを企画。様々な試みに期待したい。

高橋彩子
舞踊・演劇ライター。現代劇、伝統芸能、バレエ・ダンス、 ミュージカル、オペラなどを中心に取材。『The Japan Times』『エル・ジャポン』『シアターガイド』『ぴあ』や、各種公演パンフレットなどに執筆している。年間観劇数250本以上。第10回日本ダンス評論賞第一席。http://blog.goo.ne.jp/pluiedete

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