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上野の「東京藝術大学大学美術館」で、企画展「大吉原展」が開催中だ。江戸時代、徳川幕府公認の下で江戸の町に作られた遊郭「吉原」は、明治時代まで約250年もの長きにわたって確かに実在していた。しかし、人々の売買春が経済基盤だった事実ゆえ、吉原を真正面からテーマにした企画展は、これまでほぼ開催されてこなかった。
そんな中で本展は、5年という長い準備期間をかけ、東京や千葉、京都など、国内約30の美術館・博物館と、吉原があった台東区の「台東区立下町風俗資料館」、貴重な浮世絵や肉筆浮世絵を多数所蔵する「大英博物館」などの海外施設、多くの研究者や作品の所蔵者の協力によって実現した、非常に稀有(けう)な機会だ。
数多の名作浮世絵や絵画が示す「文化の発信地」としての顔
吉原や遊女たちの存在は、浮世絵をはじめとする美術や日本文学、落語の廓話(くるわばなし)や歌舞伎の演目といった伝統芸能に現代でも当たり前に登場し、昨今は漫画やアニメの題材になることも少なくない。
しかし、吉原という場所がなぜ必要とされてどのような歴史をたどったのか、どんな人々が生きて何が起きていたのかを、我々は本当に知っているだろうか。
本展で展示される資料は、4つの会場で前後期合わせて200点を超える。膨大な資料を通して、多様な文化が育まれた事実だけでなく、経済基盤として行われていた売買春や遊女たちを取り巻く事実についても真摯(しんし)に伝え、吉原の歴史を丁寧にひもとく試みがなされている。
冒頭、第1会場の「吉原入門」では、吉原創設の背景やその全体像を描いた絵画のほか、江戸の庶民がめったに会うことのできなかった高級遊女たちの一日を描いた、喜多川歌麿(1753~1806年)の揃物(そろいもの)などを展示する。
そもそも日本で最初に公認の傾城町(けいせいまち)、つまり遊郭ができたのは1585年のことだ。江戸幕府以前の豊臣秀吉が天下を治めていた時代から、すでに大坂や京都などには存在していた。
新たに幕府が開かれると、都市整備工事のため各藩から大量の労働者が派遣されたり、商売を始めようとする男性が単身で移住したりと、江戸市中は極端に男性が多くなる。そこで、市中に散在していた遊女屋が話し合い、治安維持などのため、幕府へ公認の傾城町を設置するよう訴えたのだ。その5年後の1618年、現在の日本橋人形町3丁目付近に設置許可が出たという。
ちなみに「吉原」の名前は、湿地帯だったこの地域一体に、植物のヨシやアシ葦が茂っていたことに由来する。
それから約40年後の1657年、吉原は江戸の北に位置する浅草寺の裏手辺りへと移転・拡大した。第2会場では、武家や大名らの遊興の場だった1600年代後半から1700年半ばの様子や、遊女の格式や制度の変化、芸者や格の高い大見世(おおみせ)を支えるさまざまな職業などが登場。大衆化とともに隆盛を極めた1700年後半、そして明治期以降に衰退・廃止されるまでの吉原の様子を、多様な資料で紹介する。
展示室には、初期の風俗画や浮世絵を手がけた菱川師宣(ひしかわ・もろのぶ)や英一蝶(はなぶさ・いっちょう)、鳥文斎栄之(ちょうぶんさい・えいし)、勝川春章、歌川豊春ら、そうそうたる絵師の名品が並ぶ。特に英は、自身も吉原で働く男芸者、いわゆる「幇間(ほうかん)」としても活動していた。
そもそも浮世絵は、遊女たちの姿や日常の様子、当時の江戸の風景、流行していた芝居や役者絵などを題材に描かれていたジャンルであり、江戸の庶民が手軽に買い求めていた、身近な出版物だった。
その浮世絵を通して、限られた人間しか立ち入ることのできない閉ざされた世界、遊郭の内部や遊女の姿を庶民に知らしめたのが、「蔦重」こと蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう、1750~1797年)である。本展では、蔦重の出版活動と吉原に関する資料も多数紹介されている。
吉原の茶屋(遊女を客に仲介する場所)に生まれ育った蔦重は、吉原大門の前で貸本屋を営み、吉原のガイドブックに当たる「吉原細見(よしわらさいけん)」の小売から編集を手がけた。そして何より、数々の天才絵師を見いだし、浮世絵の版元へと出世した人物でもある。その生涯が、2025年のNHK大河ドラマで描かれることもすでに発表されている。
蔦重がその才能を認めた絵師の一人が、喜多川歌麿だった。歌麿を自宅に住まわせながら、蔦重は遊女らの上半身をクローズアップして描かせた「美人大首絵」を発表。それまで役者絵しかなかった「大首絵」の新しいジャンルの発明であり、理想化して描かれた遊女の姿や、吉原という遊郭のイメージに、庶民はより一層、憧れを抱くことになる。
そんな吉原の遊女たちは、明治維新後まもなく、新政府による通達を機に多くが姿を消した。しかし実際は、西洋化とともに「娼妓(しょうぎ)」と名前を変え、続いていくこととなる。
第2会場の後半からは、明治時代に入ってからの吉原を巡る変化がうかがえる。海外へ輸出するため、カラフルな極彩色の表現に進化した錦絵や、高橋由一が描いた写実的な花魁(おいらん)の油画、遊女らの姿を捉えた写真などが展示されている。特に由一の絵画やモノクロの写真に写る遊女たちの姿は、よりリアルな実感を持って、女性たちと吉原の現実を捉えることができるのではないだろうか。
吉原の街並みを再現した大空間と妓楼の様子を伝える江戸風俗人形
広い第3会場は、江戸市中から船で大門の前に到着し、吉原の中を巡っていくような空間が演出されている。大通りに並んだ茶屋や妓楼(ぎろう)を一軒ずつ巡るように、贅(ぜい)を尽くして盛大に行われた年中行事など、遊女たちの生活を細やかに描いた作品や調度品などを間近に鑑賞すれば、細部まで作り込まれた非日常としての吉原が、より具体的にイメージできるだろう。
本展の大きな見どころの一つが、アメリカ・コネチカット州にある「ワズワースアテネウム美術館」が所蔵する、喜多川歌麿肉筆の大作「吉原の花」だ。花が咲くわずかな期間にだけ、わざわざ数百本の桜を植樹し、盛大な夜桜見物を催していた「仲之町の桜」の風景を描いた本作は、縦204.5・幅275センチメートルもの画面いっぱいに女性だけの宴会の様子が広がる、まさに絵空事の作品である。
2階建ての妓楼で繰り広げられる宴席には、花魁や振袖新造、禿(かむろ)、芸者や踊り子など、総勢52人が並ぶ。にぎやかな笑い声と三味線の音色が今にも聴こえてきそうな、華やかで生き生きとした緻密な描写がなされている。大英博物館が所蔵するびょうぶ「新吉原玉屋の張見世図屏風」と並んで展示された光景は、大迫力だ。
めったにない展示構成、かつ貴重な機会なので、どちらの作品もぜひ近くでじっくりと鑑賞してほしい。
また、「遊女は庶民のファッションリーダーだった」という表現はよく聞かれるが、自身の魅力を最大限に引き出そうと、髪の生え際からつま先まで、身に着けるもの全てに細心の注意を払って装った彼女たちの姿は、丹念に描写された浮世絵を通して、広く多くの庶民に知れ渡っていたと考えられる。
18世紀初めにベルリンで作られた人工顔料「ベロ藍(プルシアンブルー)」を用いた歌川豊国(三代)や、渓斎英泉(けいさい・えいせん)による藍摺(あいず)りの浮世絵は、過剰なまでの絢爛(けんらん)豪華な花魁の装いがよく分かる作品といえよう。
また、当時の女性たちが憧れていたという深紅の口紅は、植物の紅花から作られているが、実は現在も製造販売されていることを知っているだろうか。本展の特設ショップでは、江戸時代に日本橋で創業した化粧品メーカーの伊勢半が、江戸時代から作り続けている「小町紅」の特別パッケージを購入できる。
ほかにもさまざまな公式グッズが展開されているほか、吉原の歴史や解説、多数の展示作品と論考を収めた分厚い公式図録も販売する。併せてチェックしてほしい。
また展示室奥には、世界的に有名な人形作家・辻村寿三郎(1933~2023年)が手がけた表情豊かな人形が、檜(ひのき)細工師・三浦宏(1926~2019年)による総ヒノキ造り・2階建ての妓楼に配置され、さらに江戸小物細工師・服部一郎(1933~2009年)が作り出した数々の調度品が並んだ大作「江戸風俗人形」が展示されている。
昭和を代表する名工らによる本作は、「台東区立下町風俗資料館」が所蔵するものだ。これまで鑑賞してきた数々の浮世絵や絵画、資料の数々が、より立体的でリアルに感じられるだろう。この展示のみ、写真撮影が可能。細かなところまでじっくりと鑑賞しながら、吉原に行き交った人々をイメージしてみてほしい。
二度と繰り返してはならない歴史を「知る」意義とは
最後に、第1会場の冒頭に展示されている、現代美術家の福田美蘭(ふくだ・みらん)による新作「大吉原展」を紹介したい。本展のキービジュアルとして、チラシや公式ウェブサイト、公式グッズなどにも展開されている本作は、2023年の暮れ頃に制作依頼があったそう。出品作品のリストを見た福田は、自身で考えたイメージを描くのではなく、名作の数々を引用することにしたという。
複雑にレイアウトされた作品群をアクリルで精緻に描写した画面には、グラフィックデザイナーが考案した展覧会名のロゴがちりばめられている。福田は、意表を突くロゴデザインに触発され、カラフルに着彩するのではなくモノクロームに変更したそうだが、まさに吉原の喧騒(けんそう)を表現しているかのような、力強い作品に仕上がっている。
本作を構想した背景について福田は、「吉原という濃密な世界は、いろいろな問題を抱えてもいましたが、ここで育まれた文化や歴史を大事に伝えようとする本展の企画に応えたい、という思いがありました」と話してくれた。
また、制作に際して、浮世絵をはじめとした数々の作品や吉原について調べたことを踏まえ、「現代の私たちは、吉原に漠然したイメージを抱いていますよね。何も残っていないため、展示された浮世絵などからしか知る術がありません。でも単なる色街ではなく、また江戸の庶民が憧れを抱いてもいた場所だった、そのことを伝える、知ることは大切だと思います」とも語った。
吉原という場所は、四季折々の年中行事と、贅の限りを尽くした演出が日常の町であり、数多の人々を引きつけてやまない強烈な「光」を放ち続けた。その一方で、膨大な前借金や、どこまでも過酷な現実を強いられ、決して逃れられない底なしの「闇」を生きねばならなかった多くの女性たちの犠牲の上に成り立ってもいた。
江戸から明治、大正と時代は移り変わり、日本にも「基本的人権を尊重する」近代の考え方が取り入れられた。しかし、果たして現代の女性が、そして全ての人々が、人権を尊重されて生きることのできる世の中になっているだろうか。
現代の価値観では到底許されない出来事や、物事の持つまばゆい「光」と深い「闇」の両面を、まずは知ること、そして、歴史に残らず埋もれていった人々の声なき声を想像すること。そうすることで、地続きにある現代社会の課題や私たちの暮らしを、改めて考えるきっかけやヒントにもできるはずだ。
「大吉原展」は上野の「東京藝術大学大学美術館」で、前期展示が2024年4月21日(日)まで、後期展示は4月23日(火)から5月19日(日)まで開催されている。
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