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いま、もっとも勢いのあるロック・バンドのひとつであるGEZANのフロントマン、マヒトゥ・ザ・ピーポーが監督・脚本・音楽をつとめた初の映画『i ai(アイアイ)』を観てきた。現代の音楽シーンにおいてGEZANが異様な存在であるように、本作もまた、現代の劇映画シーンにおいて異様なものだった。
単調な日々を送る平凡な青年が、破天荒なバンドマンとの出会いをきっかけに、バンドを組み、人生の輝きを獲得していく。というあらすじだけ書いてしまえば、何やらさわやかでステキでいい感じの青春映画に思えるが、本作はさわやかでもステキでもいい感じでもない。本作はあまりにも切実だし、無責任に甘い夢や明るい未来をみせたりはしない。ただ、はじまり続ける“いま”を力強く描き出す。
日本の未来はウォウウォウウォウウォウなどとほたえ騒いでいた世紀末を過ぎ、「ひょっとしたら俺たちに明るい未来なんかないんじゃね?」と若者たちが気づき始めた2000年代初頭に制作された『EUREKA(’00)』や『LOVE/JUICE(’01)』、『リリイ・シュシュのすべて(’01)』、『青い春(’02)』、『Laundry(’02)』などの、青春期の傷や痛み、喪失や無力感をまなざしたオルタナティヴな映画群と本作は、共通する手ざわりをもっている。それはありきたりな表現でいうなら“ヒリヒリする”という感覚だ。
ポップであることを拒絶する、状況主義的アプローチ
これはパンクスが作った映画だな、と思った。技術的に稚拙であるとか、反体制的だとか、そういう意味ではない。状況主義的なのだ。スペクタクルに中指を突き立て、強烈なアジテートをくりかえす。
どこまで意識的にやっているか解らないが、本作はポップであることを拒絶していると思う。本作ではさまざまな事件が起こるが、その根拠はほとんど提示されない。映画におけるポップとは「なぜこうなったか」「なぜそうしたか」という説明責任を十全に果たし、観客の好奇を刺激しながら理解と納得を得ることだと思うが、『i ai』にそういったそぶりは見られない。本作の抽象的な演出やバランスを欠いた構成、生々しすぎる録音は、安易な共感や理解をこばむ。
森山未來演ずる破天荒なバンドマンの“ヒー兄”はまさしくその権化のような存在で、猛スピードで意味や理由をひたすらぶっちぎり続ける。意味や理由をぶっちぎる、というのはロックンロールの基本原理だ。つまりは「I Can't Get No Satisfaction 」であり「I Can't Explain」である。
ただ、説明的ではないけれども、情報量はすさまじい。宮沢賢治めいた汎神論的世界観が見え隠れする、マヒト独特のアフォリズムに満ちた脚本はパンチラインの宝庫で、とにかく言いたいことを言い続けている。モブ表現やゴーストノート的な装飾、ハンドルの“あそび”の部分を排し、たえず何かをまっすぐに突きつける。その剥き出しのことばの強さは、人物像の書き分けやシーンの整合性にすら侵食しており、邦画の現代劇としてはっきりと異様だ。本作にマヒトが出演していないのは至極当然だと思った。なぜなら本作の登場人物は、すべてマヒトゥ・ザ・ピーポーの依代だからだ。
白昼夢的な映像美
ドント・シンク・フィールな作劇に寄り添う映像は、みごとに場の“空気”をとらえている。撮影を手がけたのは写真家の佐内正史だが、的確なロケハンも相まってひとつひとつのカットが一枚絵として完成されており、画面構築にアイディアがある。このワンカットの強さはまさしく写真家の発想だと思う。しかし、プレスにある“寺山修司を彷彿とさせる映像美”というのはまぁ、誇大広告とまではいわないが、いささか盛った表現だ。本作における詩的な映像表現は、寺山ほどケレンのあるものではない。寺山的なのはむしろ画ではなくドラマの方で、映像感覚として似ているのは北野武の『Dolls(’02)』だと思う。キーカラーが赤というのも共通しているし、心象風景と現実の境界線が希薄で、どこか白昼夢的な浮遊感が漂っているところも相似している。
森山と永山、そして
異様な脚本と詩的な映像に厚みをもたせているのは、ひとえに役者陣の熱演だ。本作のキーパースンである森山未來の説得力たるやすさまじい。彼が演じるヒー兄は愛すべき厄介者で、銭湯でションベンを撒き散らすわ、昼日中からヨレまくってるわ、ボコボコにブン殴られてもヘラヘラしているわ、とにかく相当に滅茶苦茶なのだけれども、ほとばしる才気やカリスマに凄くリアリティがある。GEZANが結成されるきっかけをつくった実在の人物をモデルにしているそうだが、「こういう人いるよな~」と思う。いつの時代の、どの街にも、こういうグッド・ハートの不良がいる。ドブネズミのように美しい、ロクデナシの天使。そして天使は、天使であるがゆえに、地上に長くとどまることは難しい。その儚さやどうしようもなさを、森山は的確な演技プランで体現している。
だが、さらにすばらしいのは永山瑛太だ。森山と永山の出世作である『WATER BOYS(’03)』の頃からその仕事ぶりは高く評価していたが、まさかここまですばらしいポテンシャルを持っているとは思わなかった。感動する以前に、驚きのあまり呆けてしまったほどだ。とにかく「間」の理解度が完璧だし、色気も発声も凄い。本作における森山と永山は仲の悪い兄弟のように一対の存在であるが、この言語化しがたい関係性をみごとに落とし込んだ両者の熱演だけでも観る価値がある。
また本作は音楽家も多く出演しており、さとうほなみや知久寿焼の演技は流石のクオリティだが、筆者がもっとも驚愕したのはpenisboysのナミちゃんである。本作のコメディリリーフはすべて彼に一任されているが、ナチュラルな演技とキュートなルックスから醸し出される安心感が、シリアスな本作に軽やかさを与えている。もし彼がいなければ、本作の印象はもっと鈍くて重たいものになっていただろう。「良い仕事」というのはまさにこういうことである。
切なくて暖かくて懐かしくて柔らかいもの
「良い仕事」といえば、劇中で読まれる絵本の挿絵を担当した新井英樹もグレートだ。筆者は新井英樹のビッグファンであるが、ストレートに泣かせにかかったときの新井の絵の強度はすさまじい。デヴュー以来、徹頭徹尾“人間”を描き続けてきた新井にしか表現しえない、切なくて暖かくて懐かしくて柔らかいもの。それを映画館のスクリーンで鑑賞できたことは、個人的にかなりデカかった(山田太一の小説を漫画化した『空也上人がいた』と、未完の『なぎさにて』以降、新井の筆力はさらに高まっていると感じる)。
マイノリティとアウトサイダーが紡ぐ音楽的感動
本作にはヤクザ、バンドマン、ホームレス、認知症高齢者など、マイノリティとアウトサイダーが数多く出てくる。というか、登場人物の大半がマイノリティとアウトサイダーである。この映画はそうした人たちを無視も特別扱いもしない。いたずらに英雄視もしなければ犠牲者として見なすこともない。同じ世界に生きる個人として描く。そのフラットなまなざしに、筆者はとても好感を持った。そして、マイノリティとアウトサイダーが紡ぐ詩的な物語は最終的に、はっきりと「感動的」というべきエンディングへと着地する。だが、前述した通り、その感動の根拠は見当たらない。なぜ感動しているのか解らないまま、傷つくように感動する。それはEコードをかき鳴らしたときの興奮に科学的根拠が存在しないことに似ていて、要するに、凄く音楽的だ。
『i ai(アイアイ)』にはREBELの精神が息づいている。REBELとは「くたばれ」と叫ぶことではない。REBELとは「生きようぜ」と宣言することだ。もっとも純潔な仕方で他者と交わろうとする本作の姿勢を、筆者は無条件に支持する。
2024年3月8日(金)、「渋谷ホワイトシネクイント」ほか全国順次公開される。
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