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ソビエト時代のバルト三国に暮らした人々を活写する写真展がスパイラルで開催中

貧困、ヌード、宗教……「存在しない」はずの写真たちが写した真実

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Time Out Tokyo Editors
Human Baltic
Photo: Kisa Toyoshimaゼンタ・ジヴィジンスカ シリーズ「川の近くの家」より
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南青山の「スパイラル(SPIRAL)」で、バルト三国の写真を紹介する展覧会「Human Baltic われら バルトに生きて」が、2024年6月9日(日)まで開催中だ。1960年代から1990年代にかけて制作された作品を中心に構成された本展では、宗教や性がタブー視されたソビエト連邦の占領下にありながら、ヒューマニズムを貫こうとした写真家たちの実践の数々を知ることができる。

バルト三国と聞いて、まず何を思い浮かべるだろうか。最も北に位置するエストニアは、IT先進国として耳にする機会が増えた国だ。南側の隣国ラトビアは、手編みのミトンなどのクラフトが日本でも一部で高い人気を得ている。かつて栄えたリトアニア大公国の名前を歴史の授業で聞き知った人は多いだろうが、アート好きならむしろフルクサスの創始者ジョージ・マチューナス(George Maciunas)や、映像作家で詩人のジョナス・メカス(Jonas Mekas)の出身地として、最南のリトアニアを認識しているかもしれない。

バルト海沿岸のこれらの国について親しむ経験を日本で得ることは難しいが、まさに本展はそうした機会を提供してくれるものだ。ソビエトによる支配に静かに抗いながら独自の写真表現を続けた、本展で紹介される17人の作品は、数多くの文脈をはらんでおり、一見して分かりにくいものもある。ここでは一部しか触れることができないが、会場で配布されている冊子には、本展キュレーターらによる詳細な解説も収められている。本記事も同解説に寄るところが大きいので、ぜひとも会場で手に取って作品鑑賞の手引きとしてほしい。

社会主義プロパガンダの「裂け目」

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Photo: Kisa Toyoshimaアルゲルダス・シャシュコス シリーズ「テレビ」より

本展のメインキュレーターを務めるアグネ・ナルシンテ(Agnė Narušytė)は、ソビエト時代における病的なまでの検閲の「隙間や亀裂に入り込み、作品としての真実を探し求めて」いた出展作家たちによる作品を、ある種の「裂け目」と表現している。強力なプロパガンダ装置であるテレビ局で働いていたリトアニアのアルゲルダス・シャシュコス(Algirdas Šeškus)が番組収録の合間に撮影した作品について言及したものだが、同じくリトアニアのアレクサンドラス・マシアウスカス(Aleksandras Macijauskas)が撮影する「市場」もそんな裂け目の一つだ。

公式には私有財産が「存在しないこと」になっていたソビエト連邦では、当初は市場も禁止されていたが、十分な食糧の生産をまかなえなかった国は、市場の機能を認めざるを得なかったという。集団農場からの稼ぎだけでは生活が立ち行かない人々が一方におり、他方には恒常的な品薄状態にある商店で生活必需品を手に入れることがままならない人々がいる。市場は、そんな社会主義体制の「裂け目」を体現する場所でもあった。

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Photo: Kisa Toyoshimaアレクサンドラス・マシアウスカス シリーズ「農村市場」より

ナルシンテ自身は、そのような意図から市場を題材に選んだわけではないそうだが、ラトビアのマーラ・ブラフマナ(Māra Brašmane)もまた、しばしば市場の人々にレンズを向けてきた写真家だ。1960年代から70年代にかけてはボヘミアンシーンなどに取材していたという彼女の関心も、基本的には人々の姿そのものにあったのだろうが、体制崩壊後の現代の視点で当時の市場の様子を眺めるのは興味深い体験だ。

エネ・カルマ:写真には写らない「現実」

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Photo: Kisa Toyoshimaグヴィドー・カヨンス シリーズ「主題 011」より

一方で、同じくラトビアのグヴィドー・カヨンス(Gvido Kajons)が撮る作品「主題 011(Subject 011)」は、より直接的に社会主義体制下の景色を写し出している。声高にプロパガンダを掲げるメッセージやポスターと、それらに全く関心を払わずにたたずんでいる人々の姿の対比が印象的だ。時の政府の思惑と、人々の暮らしの温度差は、エストニアのペーター・ランゴヴィッツ(Peeter Langovits)の一連の作品にも見られる。

「Morning At The New Neighborhood」は、ランゴヴィッツ自身も住んでいたという、首都タリンにあるオイスメー地区の新興住宅地を捉えたシリーズだ。輝かしい生活が喧伝(けんでん)される新興住宅地ということで、モスクワのチェリョームシキなどを想像してもよいだろうか。だが政府が住宅と結びつけることを望むイメージに反して、写真に収められた人々の表情は決して明るくない。

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Photo: Kisa Toyoshimaペーター・ランゴヴィッツ シリーズ「新しい近所の朝」より

作家が、隣国の映画監督アキ・カウリスマキ(Aki Kaurismäki)に対するオマージュを込めたという1葉は、その意味で特に象徴的かもしれない。霧に包まれた新興住宅街を背景に立つ男性の後ろ姿が、まさにカウリスマキ映画の作中人物から感じられるような、小市民的な悲哀を醸し出しているようにも思われる。

そのような体制と人々とのいびつな関係を、やはりエストニア出身のエネ・カルマ(Ene Kärema)は、作品とタイトルの間に忍ばせたようだ。ただひたすらにかわいらしい子どもたちが大写しになった一連の作品は、「Where Grandma Was Born」と名付けられている。図録では「祖母の生まれた場所」と訳されているが、もっと舌足らずに「おばあちゃんが生まれたところ」とでも訳したくなるような、完全なる無垢(むく)なイメージをまとわせた写真には、しかしながら、当の「おばあちゃん」の存在を見いだすことはできない。

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Photo: Kisa Toyoshimaエネ・カルマ 展示風景

おそらくは田舎の農村で撮影されただろう写真に写り込む家が、古びて朽ち始めていることに気づき、またバルト三国からも数多くの人々がシベリアへと強制移住させられた歴史的な事実を思い起こすならば、この完ぺきなイメージに写し取ることのかなわなかった「現実」がふと頭をよぎる。この「祖母の生まれた場所」が、慕わしい孫たちに囲まれた彼女のもとへ穏やかな死が訪れる場所と呼ばれることは決してなかったのだろう。

ビオレタ・ブベリーテ:「女性によるヌード」というタブー

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Photo: Kisa Toyoshimaビオレタ・ブベリーテ シリーズ「ヌード」より

貧困や宗教など、イデオロギーと馴染まないものが「存在してはならなかった」ソビエト社会においては、性もまたタブー視されていたため、エロティックな「ヌード写真」も「存在しない」ことになっていた。しかし、美しい人間の身体を称賛する作品を世に出したいと考える人は少なくなかったようで、本展でも、3人の作家による写真がそういった文脈で紹介されている。

圧倒的に男性が多かったという当時の写真界の状況や、ヘテロセクシュアルの男性目線で女性裸体の美しさをあたかも自然美のように崇めるオリエンタリズムにも似た視線を、無批判に受け取ることは無論できないが、バルト三国のヌード写真からも歴史に残る名作がいくつも誕生したということらしい。当時の非公式な展覧会が意識されたのか、会場に設けられた小さなブースで展示され、やや窃視(せっし)的な効果をも生み出している。

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Photo: Kisa Toyoshima展示風景

ここでは、リトアニアのビオレタ・ブベリーテ(Violeta Bubelytė)を取り上げたい。自分自身の裸体を撮影して作品を制作したブベリーテは、いわゆる「ヌード写真」として見なされることをよしとしなかったという。

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Photo: Kisa Toyoshimaビオレタ・ブベリーテ シリーズ「ヌード」より

本展では、鏡などで半身を覆った作品や、多重露光で自らのイメージを増殖させる多義的な作品が展示されている。女性として、さらに自分自身のヌードを作品化しているという点で、抑圧的な当時のソビエト社会にあって最も難しいタブーに挑んだ作家の一人といえるだろう。

ゼンタ・ジヴィジンスカ:ささやかでも確かな抵抗としての日常

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Photo: Kisa Toyoshimaゼンタ・ジヴィジンスカ シリーズ「川の近くの家」より

女性の写真家が非常に少なかった時代と述べたが、すでに触れたブラフマナとカルマ、ブベリーテに加えてもう一人、計4人の女性作家を本展では紹介している。最後にラトビアからゼンタ・ジヴィジンスカ(Zenta Dzividzinska)の作品を観て、本記事の締めくくりとしたい。

ピントをぼかした表現やモンタージュ、二重露光など、さまざまな実験的手法に取り組んだというジヴィジンスカだが、本展で展示されているシリーズ「House Near the River」は、それらとも異なり、極めて日常的な生活の風景が中心となる。

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Photo: Kisa Toyoshimaゼンタ・ジヴィジンスカ シリーズ「川の近くの家」より

非常に親密な雰囲気が漂う写真は、撮影技術の巧みさや構図の精巧さなど歯牙にもかけずに撮影されたかのようだ。作家自身を含めた、家事や育児に勤しむ被写体たちは、先に見たヌード写真の作品や社会主義プロパガンダに見られた「完全」「理想」を目指して構築されたフィクショナルな人工美の対極にあるような、苦しくもたくましく暮らす人々の姿をあらわにする。

ソビエト社会にとって「存在すべきでない」ものは、実際に「存在しない」ものとして扱われた。貧富の差はもちろんのこと、ひたむきな信仰も性にまつわる悲喜交々(ひきこもごも)も存在しないことになっていた時代。

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Photo: Kisa Toyoshimaアルノ・サール「メルカ、ニール、ユルカ、そして知らない少年」

しかし翻って「自由で開かれた」現代社会を見渡してみる時、明らかにそこにあるものを「存在しなかった」ことにしようとする巨大な力というものは、今なお多くの場面で見受けられることに気づかされる。ディープフェイク映像などがはびこる現代と違い、真実を写すという文字通りの機能を担っていた「写真」に、当時の作家たちはどのような願いを込めてカメラを構えたのだろう。

一連のジヴィジンスカによる作品は、当時は公にされることがなかったものの、現在は再評価の機運も高まり、アーカイブの整理が進められているという。ありのままの日常生活が確かにそこに存在した証を立てるジヴィジンスカの作品が、国家に代表されるような大きな力に比して、あまりにささやかではあっても、ヒューマニズム(人間中心主義)による確実な抵抗の足跡のように感じられると言ったら言い過ぎだろうか。

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