「ザ・ジャパニーズサウンド」が違うジャンルの曲に聴こえる面白さ
もともとはフルート奏者として日本で音楽活動を始めたマイア。彼女は民謡との運命的な出会いについて「奄美大島を訪れた時だった」と振り返る。
「音楽家である父(ピエール・バルー)のライブツアーでフルーティストとして奄美大島に同行した時、コンサートの前座が奄美島唄の歌手である中村瑞希ちゃんだったんです。島唄のヤングジェネレーションに当たる、彼女、彼らの歌声を聴いて、とにかく感銘を受けました。『こんなに素晴らしい歌が日本にあるんだ』って」
その後、フルーティストとして何度か島唄の歌い手とコラボレーションを重ねた。心の奥底では「自分も歌ってみたい」と思いながら「果たして島外の人間が歌っていいのか」という葛藤も抱えていた。数年間、独学で練習を重ね「自分らしく歌えそう」と感じるようになった頃に、人前で歌うようになった。 大きな転機が訪れたのは2011年3月。マイアが日本からパリへ移住したわずか1、2週間後、東日本大震災が発生した。
「原発も津波もあまりにショックで、半年くらいインスピレーションが生まれませんでした。原点に立ち返って、自分が何をすべきか、なんで歌っているのかをずっと考えていて。気付いたら民謡を聴きたくなりました。 福島をはじめ、東北の民謡は力強いんですよね。旋律を徐々にアレンジしていくのは本当に楽しかったし、何よりニッチだと思っていたそれらが、いろんな大陸の音楽に通じるようで、普遍性を感じました。
自分がワールドミュージックを聴いて育ったこと、そして日本語が理解できつつも感覚のルーツが『ガイジン』であることは要因にあったかもしれません。とにかく 『ザ・ジャパニーズサウンド』だった民謡が、ちょっとしたアレンジで違うジャンルに聴こえる面白さにハマりました」