彼らが初めて女装パフォーマンスを行ったのは、さかのぼること約20年。1994年にブルボンヌ自身が立ち上げた、ゲイのためのパソコン通信『UC-GALOP』の周年パーティーのときだ。「ゲイのパーティーなんだから、どうせだったら女装でしょ、と安易なノリで」企画したとブルボンヌは語る。それ以前の東京では、ドラァグショーなどのパフォーマンスをする者は少なく、またそのための場所も十分ではなかったため、ゲイバーなどの周年パーティの余興程度のものがほとんどだった。1990年前後になり、日本でもクラブカルチャーが浸透してくると、ゲイ向けイベントの際にパフォーマーとして、そういったゲイバーで女装をしていた人たちが次第に呼ばれるようになっていく。これがシーンとしての、東京でのドラァグクイーン文化の幕開けと考えられる。
「でも当時ははみんなドラァグクイーンなんて言葉知らなかった。(ドラァグクイーンという言葉が広く認知されたのは)映画『プリシラ』やル・ポールが流行った1994〜95年になってからだと思う」とエスムラルダは振り返る。そんな時代にブルボンヌとエスムラルダは、同じくパソコン通信のメンバーだったサセコらとともに、女装パフォーマーとしての経歴をスタートさせる。女装パフォーマー集団『アッパーキャンプ』を結成し、ドラァグクイーン文化に笑いの要素を持ち込んだスタイルを確立させた。日本のテレビドラマや女優、アイドルのパロディなど、従来のドラァグクイーンが扱うことのなかったものをネタとして、幅広い層から絶大な人気を博すこととなる。
そんな彼らは、自分たちのことを「ドラァグクイーン」とは呼ばず、「女装」という言葉を好んで用いる。「恐れ多くて(自分のことを)ドラァグクイーンなんて言えない。ドラァグには色々と決まり事があるから。でも(この格好を)女装じゃないとは誰も言えないから。一種の逃げよ」と卑下してみせる。その謙虚な姿勢の裏には、しかしながら、ともすれば極端に審美主義的、形式主義的なものになりかねない、様式美として完成したドラァグクイーンのパフォーマンスだけではなく、様々なタイプの女装ショーの存在意義を認めようという態度が透けて見える。ホラー要素の強いエスムラルダのショーも、ブルボンヌがアニメコスプレをして行うコントのようなパフォーマンスも、こういった価値観に裏付けられているのだろう。そしてこのスタイルは、先述の女装集団『アッパーキャンプ』の活躍により広く共有されるものとなり、東京ならではの独特のシーンを作り出した。ドラァグは、もちろん、極度に洗練されたゲイ文化の1つの髄として、素晴らしい「伝統芸能」だが、それ以外の女装パフォーマンスの驚くべき多様性を楽しめるところも、いまや東京の女装カルチャーの大きな魅力となったのだ。