ギターを叩き、血をまき散らし、不協和音を鳴らしていた
—パンクな作風で知られていますが、パンク ロックを初めて聞いた時を覚えていますか。
はっきり覚えています。セックス・ピストルズでした。当時は、とても貧乏だったので、自分のレコードプレーヤーを持っていなくて。友人の家で聞きました。
—アルバム『Never Mind the Bollocks(勝手にしやがれ!!)』ですか。
そうです。はじめはよく分からなかったのですが、本当に耳から離れなかったんです。当時の私にとっては、多くのものがこんな感じでした。ボブ・マーリーを聞いた時も同じで、はじめは「これは何だ」と思いました。でも、ゆっくりとこの音楽は私にとって重要なものになっていくのを実感しました。
—パンク音楽を知る以前から、すでに8ミリ映画を制作していたのでしょうか。
そうですね。『高校大パニック』(1976年)と『1/880000の孤独』(1977年)はどちらも8ミリで作っています。 高校生の時にバンドを組んでいましたが、それは「パンク」という言葉を耳にする前の話です。今思うと、ギターを叩き、血をまき散らし、不協和音を鳴らしていました。もし、私たちがやっていたことを「パンク」と呼ぶことを知っていたら、続けていたかもしれません。
—映画の世界に入ったきっかけは何でしょう。
子どもの頃から映画に興味があったんです。音楽や書くことには向いていませんでしたが、カメラを通して自分自身を表現できるかもしれないと感じていました。最初の作品は『高校大パニック』でした。映画を見せた時、周囲の人は、面白いと言ってくれました。誰かが私をほめてくれたのは、その時が初めてでした。私にとって、これは快感でした。子どもの頃から、私は自分自身を表現したいという欲望を持っていたのですが、どうやって満たせばいいのかが分かりませんでした。映画制作がすべてをつなげてくれました。
—それが、パンクの精神と映画が融合した瞬間ですか。
そうですね。セックス・ピストルズ、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン、多くのバンドのメンバーが私と同い年でした。私と同じように、世界中の若者が物事について考えていました。それが励みになった大きな根源でした。まるで、パンクがそこに私自身の身を置くことを許してくれたように感じます。自分を表現することが技術よりも重要だという考えがありました。