タイムアウト東京 > アート&カルチャー > 東京を創訳する > 東京を創訳する 第15回『歌舞伎ー昔と今(1)』
前に、江戸東京が作った3つの「身体のエンタメ」は、歌舞伎に相撲に芸者である、と書いた。それぞれは、その後の300年以上の歴史の中で、「映画、演劇」、「スポーツ」、「風俗、グルメ」という新たなジャンルの中に引き継がれ、その中核に今も存在している。江戸東京という町の、古今の混ざり具合の不思議さだ。これから6回にわたってその3つの、昔と今を眺めてみる。
筆者は歌舞伎を半世紀見てきた。といっても昭和の、それも戦後だいぶたってからだから、よくいる往事を語る古老のようなことは言えないなと思っていたが、自分の記憶のなかの歌舞伎がもはや非常に古めかしいことにびっくりする。
筆者が見始めた1960年代前半(昭和30年代後半)の歌舞伎はどんなであったか。一言で表せば、「斜陽」である。昭和30年代に一番有名な歌舞伎役者は、映画俳優の中村錦之助だった。ほかに有名な歌舞伎関係の役者も、長谷川一夫とか片岡千恵蔵とか、もう戦前に歌舞伎から映画に転身して成功を収めた俳優たちだった。それでも、中村錦之助は映画界で大成功を収めた後、実家の中村時蔵家を立て直そうと、歌舞伎の舞台にも肩入れをしだして、縁者一同、屋号を「萬屋」にあらため、本人も萬屋錦之介となったり、長谷川一夫も「東宝歌舞伎」という興行を始めたり、と、映画の世界にいてもスター本人たちのなかでは歌舞伎との縁は深かったようだ。しかし観客から見れば、彼らはもうすぐ博物館入りする歌舞伎を見限って新しいジャンルに転向したのだ、と映った。今の歌舞伎界の重鎮、市川猿翁だって、筆者が初めて知ったときは、團子という名前でテレビ時代劇『鞍馬天狗』にデビューしていた。
実はそのころも、六代目歌右衛門とか、「海老さま」の愛称で知られていた十一代目市川團十郎(今の海老蔵の祖父)とか、実力者や人気者はいたのだが、彼らの活躍をしても歌舞伎の長期低落傾向は回復できないと思われていた。人気復活のおぼつかない、今の文楽と同じポジションである。
では、そのころの歌舞伎の舞台がつまらなかったのかというと、筆者にはそうではなかった。暗い(ように思えた)歌舞伎座に行くと客席はがらがら、幕間は何十分もかかってだらだら、夜の11時を過ぎても終演にたどり着けず、大雪のときなど交通途絶で歌舞伎座の中で夜を明かさねばならない客が出る、といった体たらく。ところが、このやる気のなさ、というか「やるせなさ」が何とも味わい深く、「退廃」までは分からない子どもの筆者にも、江戸の持つ怠惰さが体中に染みわたり、客席に沈み込むと別世界にずっぽりと浸った。
それが分かっているので、こちらも歌舞伎見物の当日は気分を出すべく、新宿から延々、四谷、日比谷から銀座を通って、東銀座まで、乗り換えが悪いと1時間近くかかる都電で向かう。途中、皇居を左に見て東京を横断すると、空間のみならず時間もスリップして、歌舞伎座は江戸時代の「木挽町」になった。何も戦前の話ではなく、高度成長のなかで1967年(昭和42年)には地下鉄に代わられて廃線が決まっていたその前夜、レトロ感を先回りして味わおうとしてのアイデアであったが、思い起こせば単にませている以上に、1966年(昭和41年)のビートルズ武道館コンサートのチケットを友人に譲っても歌舞伎座のチケット代を捻出した高校生の、筆者ならではの倒錯ぶりであった。
そう、静かな倒錯はあったな。片岡我童という役者が、十一代目市川團十郞が好きなのだ、ということを聞いて不思議な思いがした(噂によると、生まれ変わっても十一代目團十郎の相手役を勤めたいと言ったとのことである)。そんな雰囲気の老役者が、ほかにも舞台で何することなく座っていた。歌舞伎座で学生服の筆者が歌舞伎を見ていると、「若いのにお偉い」と、見知らぬ老婆に食べ物をもらったことが複数回ある。これは「倒錯」というのとは違うのだが、ここにもなんだかその気味がある。また、客席の遠くから見られていて、「終わった後、お茶を飲まないか」と男性に誘われたことも複数回ある。これは不快ではなく、こちらの印象としては「暗い」可哀想な感じであった。なかでも、都電が廃止された後の、記憶では乗り換えなしの新宿行きのバスの中で声をかけられ、「某放送局の関係者なので役者たちの写真を見ることができる……」と自慢をしているのか、と思っていたら、新宿の終点際でお茶に誘われ、断った途端に一駅前で走り降りた人には、やるせなさを感じた。これは歌舞伎とは違うことを書いているのかもしれない。しかし、明らかに当時の東銀座あたりの寂れ方と通じるものがあった。
振り返れば、新しい芽はすでに出ていた。1966年(昭和41年)に今の七代目尾上菊五郎が、NHKの大河ドラマで義経を演じて人気を博し、同世代の3人が「三之助」と呼ばれて小さなブームとなり、三島由紀夫が亡くなる数ヶ月前の1970年(昭和45年)に、「坂東玉三郎」発見の絶賛の文章を書いたりしていた。それでも退勢の挽回は難しい、というのが当時の歌舞伎の未来に対する一般の見方だった。少なくとも筆者は、歌舞伎が隆盛になってほしいと思ったことは一度もなく、都電のようにその終焉を見届けるつもりであった。そんな歌舞伎が今どうか、といえば、それは次回に書こう。今回はまず、かつてのやるせない歌舞伎について報告した。