インタビュー:九世野村万蔵

インタビュー:九世野村万蔵

お笑いから大田楽まで。狂言師に聞く、芸能のこと日本のこと

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伝統芸能、それも江戸の町衆に支持された歌舞伎ではなく、貴族や武家の寵愛を受けた能楽と聞くと、堅苦しく近寄りがたい印象を受ける向きも多いかもしれない。しかし、九世野村万蔵のおおらかな人柄に触れれば、能楽に対するそのような感想が当たらないものであるということに同意してもらえることだろう。

「狂言には『人間を愛したり、許したりしないといけませんよ』というメッセージが込められているんですよね」と話してくれたのが九世野村万蔵、狂言の二大流派の一つ、和泉流の野村万蔵家9代目当主だ。実父に公益社団法人日本芸能実演家団体協議会会長でもある人間国宝の野村萬を持ち、自身も万蔵家の組織「萬狂言」を率いて国内外で活動を行う、当代きっての狂言師だ。

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時に「双子」とともたとえられる「能」と「狂言」の、二つを合わせた呼び名が「能楽」、古くは「猿楽」とも呼ばれていた。能に、神や仏、鬼といったこの世ならざるものを扱う悲劇性の強く深刻なものが多いのに対して、狂言は人間の滑稽さをユーモラスに表した喜劇と、おおまかには言える。

「能と狂言は表裏一体。どちらが表でもいいんですけれども、その両輪があるから今の時代まで生き残ってきた」と万蔵が言うように、悲劇だけでなく喜劇もあればこそ、多面的な人間の深みを表現することに能楽は成功してきたのだろう。万蔵の親しみやすい例にならうなら、「今で言えばNHK的な頭になって政治などについて真面目に考える」ことも、「バラエティ番組みたいにちょっとふざける」ことも人間の重要な生活の一部だ。「武家社会や貴族社会では能が好まれたとされますが、みんな頭がいいと思われたいから真面目な方の能を愛好していると言う。でも本心では狂言が好きという人もいっぱいいたんですよ」と茶目っ気を見せて笑わせてくれたのも狂言師ならではか。

“Public『東京芸術祭2016』オープニングセレモニーにて

「ピエロ」への影響などで有名なイタリアのコメディアデラルテと同様に、狂言にもパターン化されたキャラクターが多く登場する。好きな役柄を尋ねると、「気持ちいいのはやっぱりちょっと威張ってる大名とかね。だけど本当は愛嬌がある、というような役柄が好きですね。狂言には、ほぼ悪人は出てこないと僕は考えています」。盗みを働く者や、賄賂を受け取る役人など、罪を犯す人物は数多く出てくる狂言だが、それは「悪人とは違う」と万蔵は語る。狂言では「人間誰しも持っている部分」がつい出てしまったり、それで後でしっぺ返しを受けたり、ということが描かれているからこそ許してしまう。そのような人間性が、「デラルテもそうだけれども、狂言にも多く描かれている」。これが万蔵の言う「『人間を愛したり、許したりしないといけませんよ』というメッセージ」だ。ゆえに、武家や貴族のみならず、庶民からも愛されてきた。

もちろん神事としての能楽という側面も忘れてはいけない。儀式的な面影を強く残す狂言『三番叟(さんばそう)』は、五穀豊穣を祈願し、また感謝を捧げるものであって喜劇としての要素は一切ない。「今でも『三番叟』を舞う際は身を清め精神を清め、神に憑依してもらいたい」という態度で臨むという。また、能を専門にする役者が狂言の舞台に立つことはない反面、狂言師は能においてもストーリーテラー的な重大な役割を担う。「狂言は簡単に言えばコウモリだと思います。何でもござれというのは大げさでも、とても幅広く」対応できる技量を狂言は必要とする。「悪く言えば器用」とおどけるが、確かに一つの道を極めることが求められる芸事に「器用」とは良い印象を与えないかもしれない。しかしながら、その器用さをいかして、狂言師野村万蔵が力を入れて現在取り組んでいるのが『大田楽』だ。

“Public「山代大田楽」より photo:赤坂久美

「田楽」とは、平安時代から室町時代にかけて日本中で大流行した芸能。能楽のルーツ「猿楽」とは、互いに影響しあいながらしのぎを削ってきた間柄だ。その後、田楽は廃れ、地方の民俗芸能にその名残が見られるだけになってしまう。当時の資料なども少ないなかから、万蔵の今は亡き兄である五世野村万之丞が中心になり、現代に復元させたのが『大田楽』だ。

「失礼ながら、江戸時代以降の文楽や歌舞伎などの人たちが(残存する資料の少ない田楽を)復元できるかというと難しいと思う。始まりから人に見せるパフォーマンスであったというところが我々とは根本的に違うんですよね。我々は人間の世の中のことを描いていても、その中心には自然があり神がある」。根源的な部分に共通するものがあるからこそ、田楽は狂言の手を借りて現代に蘇ることができたのだ。能の神秘性だけでなく、人間らしい心を解放する躍動感をも備えた狂言は、アクロバティックな表現の多い田楽とも親和性が高いのだろう。

「神秘的な厳かさ、精神が洗われたり引き締まったりする感覚が基盤にありながら、そこから徐々に魂が揺さぶられていき、最後にはその場にいる皆が熱狂し解放されていく」点が『大田楽』の最大の見所だと、万蔵は「序破急」という言葉で語る。「今の世の中はただずっと激しいだけのものが求められやすいんだけども、分かりづらいけども時間をかけて」盛り上がって神がかっていく感覚、「現代人が忘れてしまった感覚」が『大田楽』によって呼び覚まされる。

“Public「山代大田楽」より photo:赤坂久美

その忘れ去られてしまった感覚と現代人とを結び合わせる芯になっているのが「リズム」だという。『大田楽』の音楽は、やはり能楽師の一噌幸弘(いっそうゆきひろ)が中心となって制作している。代々、能の笛方を務める家庭に育った一噌は、日本の笛はもちろん古今東西の管楽器や音楽を探求し、自ら新たな笛の考案までしている。西洋クラシックやジャズ、現代音楽など幅広い分野での演奏から作曲までを行う、万蔵が言う通りの「奇才」だ。「太鼓にしても激しいだけの和太鼓ではなく、心に染み入るものを大事にしながらも軽快。そしてそれに対して、たった1本の竹の笛で演奏する力強さ」と説明されると否が応でも期待せざるを得ない。

街中で開催される『大田楽』は、プロではないパフォーマーが多く登場する点にも特徴がある。「芸術性や技術を追求することは悪いことではないけれど、プロ集団だと観客との間に見えない壁が必然的に作られますよね。だけどもそこに、たとえば自分の子どもがちょっと交じっているというだけで、お父さんやお母さん、お爺ちゃんお婆ちゃんから友達へと広がって、それだけで壁が取り払われます」。そのようにどんどんと大きく周囲を巻き込んでいくあたりが、いち早くプロフェッショナルな集団を組織化していった「田楽」の前に「大」という言葉がつく所以なのかもしれない。「そういう感覚なので地域にとっても根付きやすく、町おこしにもなりやすいですね」。

“Public「フィラデルフィア大田楽」より photo:赤坂久美

『大田楽』は国内はもとより、ソウルやウィーン、ワシントンなど海外での開催も重ね、どんどんと大きくなっている。『東京芸術祭2016』の一環として行われる、2016年11月開催の『大田楽 いけぶくろ絵巻』には、現代風のコスプレイヤーさえ登場する。「日本の中世の装束を纏った人々とサブカルチャーのコスプレをする人が一緒に練り歩いていると『何だろう』と気になりますよね。最後に自由に踊ってもらうときに彼らがどんな体の動かし方を見せるのか」も気になるところだ。「化粧をしたり仮面を着けたり、変身願望というのは古今東西同じなんですよね。それらが混じり合ったときに『古典できっちりしたものも素晴らしいな』と思うけども『何だかよく分からないごちゃっとしたものもいいな』となるわけだし。もしかしたらそれが偶然、ピカソの絵のようなものを生むかもしれない」と、笑いながらも力強く語る。何百年もの歴史を持つ芸を追い求めようとする人は、新しいカルチャーへの期待も失わないらしい。

“Public『東京芸術祭2016』オープニングセレモニーにて

この万蔵による現代文化へのリスペクトは、この10年『現代狂言』というかたちで一つの結実を見た。いわゆる「お笑い芸人」たちとの新しい舞台への挑戦だ。「包み込むように世界を作っていくのは彼らは不得手だけれども、そこは得手不得手で。彼らの細やかな技術はすごい」と賞賛する。一方で、古典には「多少技術がなくても大黒柱がある」から「習った通りにやるだけ」でも伝わる面白さがある、とも。「長年の時間、人々の努力の結晶が古典にはある」。だからこそ『現代狂言』では、古典を土台に据え、そこに現代の表現によるデコレーションを施すかたちを取った。

「技術がなくても」とは、あくまでひたむきな訓練を積んでいることを前提にしているからこその発言だろう。事実、後進の教育に関しては、幼少期から厳しい稽古が始まる芸事だが、「純真に楽しむ気持ちを失わせてはだめだけれども、有無を言わせず」させると言う。その本意を聞くと、「なぞらせる、真似をさせる」ことが日本には合っている、と。「自分がなければあなたじゃない」というような、ことさらに個性のみを重視する風潮には懐疑的だ。「真っ白な紙を渡して『自由に絵を描きましょう』と言ってどんどん描ける子もたまにはいるでしょう。それはそれでいいんだけれど、たいがいは『これを描きましょう』とした方が一生懸命描いてくれる」。「型」という言葉が思い起こされる。「その型が嫌だったら、そこから壊していけばいい」。

50歳の働き盛り、狂言という型を出発点とした挑戦はまだまだ続きそうだ。「一生かけてはね、狂言の芸術性や可能性と同時に、古典というものを追究していかなければいけないんだけども」としたうえで、そう遠くない未来の話も語ってくれた。「友人でもある磯田道史さんという歴史学者とタッグを組んで、戦国時代などを題材にした新しい狂言」の公演を考えているとのこと。磯田道史は、映画化もされた『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』や、大きな歴史に名前の残らない庶民の目線からの歴史研究で人気を博す気鋭の学者だ。「常に新しい血や新しい栄養を入れつつ、昔ながらの芸能を追求していきたい」。

九世野村万蔵(のむらまんぞう)

1965年生まれ。和泉流狂言方野村万蔵家九代目当主。一門の組織萬狂言を主宰。古典狂言のみならず、狂言とコントを融合させた「現代狂言」の創作・演出や、狂言大蔵流と和泉流の若手の研鑽と交流を図る「立合狂言会」を発足させるなど、狂言の普及や発展育成に尽力している。また中世の芸能「田楽」を今日的に再生した「大田楽」に演出出演。海外公演も数多く、アメリカを始めカナダ、オーストリア、スペインなどで公演、文化交流を積極的に行っている。重要無形文化財総合指定。

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