大野一雄、土方巽、澁澤龍彦と出会って
―笠井さんと澁澤龍彦さんの出会いを教えてください。
笠井叡(以下:笠井):話は、1963年の暮れにさかのぼります。私は大学3年生で、大野一雄さん(※1)のところで踊りを勉強していました。その稽古場に土方巽さん(※2)が遊びに来て、土方さんと初めてお会いしたんです。土方さんは、私を1965年に公演した『バラ色ダンス—A LA MAISON DE M. CIVECAWA(※3)』という作品に使ってくれました。当時の私にとっては、大野さんも土方さんも、それまでに出会ったことのないような方。大野さんからは、即興的に自由に動くという踊り方を学んだような気がしますし、土方さんからは、その場その場で空間に切り込むような振り付けの仕方を教わりました。ですから、お二人とも、私の即興的な部分と、振付的な部分の師なのですが、私は生意気にも「本当に自分がやりたい踊りはこれなんだろうか」「何か違うのではないか」と考えまして......。『バラ色ダンス』が終わったあと、自分の会をやらなければダメだと思い、1965年に銀座のガスホールでソロリサイタルを開いたんです。土方さんもまだ「舞踏」という言葉を使っていらっしゃらない頃でした。
―處女瑠祭他瑠(しょじょりさいたる)『磔刑聖母:舞踏集第壱輯(たっけいせいぼ:ぶとうしゅうだいいっしゅう)』という公演ですね。
笠井:はい。大野さんも土方さんも、自分が振り付けると言ってくれたのですが、私はそうではないところでやりたかった。ところが、大野さんが「あなた一人ではだめだ」と絶対に引かなかったんですよ。大野さんは先生なので仕方ないと思ったのですが、土方さんは、先生というよりも私を舞台に使ってくれる人だったので、お断りしました。しかし、土方さんも引かず(笑)。「何かやらせろ」と言って、リサイタルの制作をしてくれたんです。土方さんのおかげで、学生が開いた会なのに、写真家の細江英公さんや、画家で版画家の加納光於さん、詩人の富岡多恵子さんや飯島耕一さんなど、一流の人々が集まってくれて、その中に澁澤龍彦さんもいらして。会自体は、本当にめちゃめちゃなものでしたが(笑)、それ以来、澁澤さんは私の会をほとんど観てくれ、「こうだった」「ああだった」と話してくれるのが、私の踊りを支える一つの力でした。
―澁澤さんとお話したことで、特に印象に残っていることは何でしょう。
笠井:澁澤さんと私は15歳違うので、本来は対等に付き合える世代ではないのですが、彼はどういう訳か私に心を許してくれ、何でも喋ってくれました。ですから、印象に残っている話はたくさんあるのですが……。
一つ挙げると、1979年、私は突然、何の予告もなく、家族5人を引き連れてドイツのシュトゥットガルトに行ってしまったんです。本当に失礼なことながら、誰にも何も言わず、ドイツから一通の手紙も書かなかった。澁澤さんにも、挨拶をしないで行ってしまったので、4年後の1983年に一度、単身で日本に帰った時に、澁澤さんにだけは挨拶をしなければと鎌倉の自宅を訪ねました。それが、澁澤さんに会った最後となってしまったのですが、その時のことが忘れられません。フランス革命期の貴族で小説家のマルキ・ド・サドの研究をしていた澁澤さんは、サド侯爵の城があるフランスのラコストを訪ねた時の話をしたんですよ。南仏の海岸沿いにある城で、南に花畑がずっと広がっていた。それを見たら涙が止まらなかった、と。その時、僕が「澁澤さんは、サド侯爵の生まれ変わりですもんね」と言ったら、否定はせず、「そんなことは誰にも証明できないんだよ」とおっしゃいました。サド侯爵は、フランス革命の時代に、思想家のモンテスキューや、革命家のロベスピエール、マーラー、ダントンよりも、もっとラディカルに自由を訴えた人。それが、澁澤さんの魂の中にもあった。彼の文学の中で一番のテーマは「自由」なんですよね。どんなイマジネーションの中にでも生きる自由が人間にはあるという、そういう自由さ。澁澤さんは1987年に亡くなりましたが、その直前に出版されたのが『高丘親王航海記』という書籍です。
※1 大野一雄:舞踏家。モダンダンスを学んだのち、土方巽とともに舞踏を創始、牽引した。代表作は『ラ・アルヘンチーナ頌(演出:土方巽)』や『わたしのお母さん』など
※2 土方巽:舞踏の創始者でありカリスマ。『禁色』『バラ色ダンス』『土方巽と日本人〜肉体の叛乱〜』などの作品や言説で絶大な支持を得て、多くの弟子に影響を与えた
※3この副題は日本語で「澁澤さん家のほうへ」の意味となる