グローバリゼーションの中の「表現の自由」と「検閲」
1. グローバリゼーションの中の「表現の自由」と「検閲」
―1. ミルの「自由論」
今回、あいちトリエンナーレで懸案となった「表現の自由」について、ここであらためて考察してみたい。当然のことではあるが、アーティストが安全に創作・発表できる社会は、多くの市民にとっても民主的な生活をすごすことのできる社会の基盤となるであろう。その意味でも「表現の自由」は極めて重要な概念である。
「表現の自由」の思想的背景として、イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』(1859)があげられる。
同書の中でミルは「自由」を次のように定義した。「自由の名に値する唯一の自由は、他人の幸福を奪ったり、幸福を求める他人の努力を妨害したりしないかぎりにおいて、自分自身の幸福を自分なりの方法で追求する自由である」(ミル1859=2012:36)。さらにミルは、「多数派が、法律上の刑罰によらなくても、考え方や生き方が異なるひとびとに、自分たちの考え方や生き方を行動の規範として押し付けるような社会の傾向にたいして防御が必要である」(ミル1859=2012:20)と述べた。
ただし、ミルは同書の中で芸術に関する「表現の自由」そのものについては言及していない。その一方で、「思想と言論の自由」に関してはわざわざ一つの章を割いて論じている。そこでミルは、「どんな学説であろうと、それが不道徳とみなされる学説であろうとも、それを倫理的な信念の問題として公表・議論できる完全な自由が存在しなければならない」(ミル1859=2012:43)としている。また、「討論の場がつねに開かれていれば、よりすぐれた真理がそこに存在するとき、そして、われわれの知性にそれを受け入れる余裕があるとき、それはきっと発見されるだろう」(ミル1859=2012:56)とも語っている。
これらの言説から理解できる通り、ミルは、真理の発見のために「思想と言論の自由」が不可欠と考えたのである。そして、真理を発見していくことで、人間の社会が進化すると考えたのである。これは、「自由」を人間の進化の道具としてとらえる、ある種の道具主義とみることもできる。
ところで、ミルはさらに重要な指摘をしている。「たとえ国民の幸福が目的だからといっても、国民をもっと扱いやすい道具にしたてるために、一人一人を委縮させてしまう国家は、やがて思い知るだろう」(ミル1859=2012:275)。そして「そういう国家は、マシーンが円滑に動くようにするために、一人一人の人間の活力を消し去ろうとするが、それは国家の活力そのものも失わせてしまうのである」(ミル1859=2012:276)と、ミルは“予言”しているのである。
―2. 国連と「表現の自由」
国連においても、「表現の自由」と「検閲」は重要な課題となっている。国連人権理事会の文化権分野特別報告者の2013年の年次テーマ報告は、「芸術的表現と創造性の自由に関する権利」(※4)とタイトルされた。この報告書は、前年の2012年に文化的権利の分野で国連特別報告者に任命されたパキスタン出身の社会学者Farida Shaheedによって執筆された。
(※4)Farida Shaheed(2013)“Report of the Special Rapporteur in the field of cultural rights"
Shaheedは同報告書において、「芸術の検閲、または芸術表現や創造性の自由な権利へ不当な規制は破壊的な結果をもたらす。それらは、重要な文化的、社会的、経済的損失をもたらし、アーティストから表現の手段と生計の手段を奪い、アートおよびその観衆に対して危険な環境を生み出し、人間的、社会的、政治的な問題に関する議論を抹殺し、民主主義の機能を妨げ、そして、しばしば検閲の合法性についての議論も妨げる」(Shaheed2013:18-19)と、検閲のもたらす害悪について言及している。
さらに、「多くの場合に検閲は、物議をかもす芸術作品により広範な世間の注目を与えるという点で逆効果である。しかし、検閲に対する恐怖は、アーティストや芸術団体において、しばしば自己検閲を引き起こし、芸術表現を窒息させ、公共の範囲を衰退させる。それゆえに、芸術的な創造性は、恐怖や不安がない環境を必要とする」(Shaheed2013:18-19)と、Shaheedは述べている。