『Damogen Furies』はライブの文脈で聴かれるべきものだ
ー初めまして。まずは5月の来日公演を楽しみしています。
うんうん。
ー特に京都の森の中であなたのパフォーマンスが見ることができるのは
ああ、そうなんだ?
ー『The Star Festival』という、森の中で開催されるフェスなんです。
おー、そりゃグレイトだ。
ーどのようなライブになるのか想像がつかなくて楽しみです。
(笑)森かぁ、アメイジング!
ー今回も視覚的な演出を行うのでしょうか。
うん、やるよ。新作の音楽向けに特別にデザインした、そういうヴィジュアルプレゼンテーションを用意してる。
通訳:そのライブですが、実は私は先だってロンドン公演を見せていただいたんですけど、あれらのビデオ/視覚要素はあなた自身がコントロールしているんですか?それとも別にビデオアーティストがいるのでしょうか。
基本的にどういうセットアップなのかと言えば、僕がステージで生み出す音楽とビデオイメージを作り出す機材とを同期させてあるんだよ。だから、その 場で生まれる音楽、生で演奏される音楽そのものがイメージにも影響を与える、と。というわけで、ライブの場における音楽面での出来事と視覚面で起きること との間には繫がりがあるんだよ。そう……うん、僕が音楽面でやることが映写されるイメージに大きく作用するってことだし、そうだね、その意味では「コント ロールしている」ってことになるんだろうね。
ー新作の『Damogen Furies』を前作『Ufabulum』と並べて聴くと、エレクトロニックサウンドに終始しているという点は共通していますが、全体的な作風としては対 照的な印象を受けました。前作はメランコリックでドラマチックで、サウンド的にも同時代のクラブミュージックと呼応する部分がありましたが、今作は荒々し く皮肉めいていて、それでいてテンションの高い雰囲気で、サウンドはより原始的になっています。
ああ、なるほどね。
ーこの作風の変化について教えていただきたいのですが、今回の新作の制作期間中は、どのような生活を送っていましたか?
クハハハハッ!
ー例えばなにか習慣の変化や、食生活や性生活が影響を与えたことなどがあるのでしょうか。
(苦笑)参ったな〜、マジかい?そうか……だから、作風の変化が僕のアティテュードだったり、あるいは日常生活の変化と関係したものなのか?ってこ とだよね。だけどまあ、まず大雑把に答えさせてもらえば、その答えは「ノー」。これといった大きな変化は特になかったよ……っていうか、そもそもその質問 に関しては「そこまで」ってことにさせてもらいたいけどね。ってのも自分の食生活だとかプライベートライフについて話すつもりは毛頭ないし。僕はインタ ビューの場でそういうことを語ったりしないし、んー、とにかくこう、「そういう話をするのは正しくないだろう」って思えるんだよ。 そうは言っても、自分から見て「これはデカいぞ」と思えるような、そういうシフトチェンジが自分の身の上に起きた時期だったとは思わないけどね。
ーなるほど。
ただ……これは自分がレコードをリリースするときによく起きるんだけど、その作品を振り返ってみて、特に発表された直後に多いんだけど、僕はその作 品をもっともネガティヴに見つめ直すんだよね。要するに、そのレコードの持つ欠点だの失敗した面をすべてあげつらって考るっていう。で、 『Ufabulum』を出したあとで自分のなかに残ったのが、「なにかが欠けている」って感覚でね。そのひとつとして、なんというか、自然さの感覚が欠け ている気がしたんだよ。で、これはコンポーザーとしてではなく、あくまで僕が『Ufabulum』にいちリスナーとして接した際に抱いた感覚なんだけど、 あの作品はかなり……非常に、非常に緻密にプランニングされたものという感じがしたし、かつサウンド面において、音の美意識という意味で一定のレベルの洗 練を持つ作品だな、そう思えた。それもあって、自分はもっと生々しいサウンドを持つ、そういった音楽を追究することに熱心になったという。だけど、そこか ら、僕は「ライブで演奏される」という条件、根本的にはそれを志向するような音楽を作ることへと興味を変えていったわけだよね。で、『Ufabulum』 はホームリスニング向けレコードとしての性質とライブ会場で聴く音楽、その中間のバランスを持つ作品と言っていいと思うんだ。対してこのレコードでの僕の 意図、なによりも第1の焦点になるのは、これはライブ会場で聴かれるべき音楽、ライブの文脈で聴かれるべきものだ、ということで。というわけで、必然的に そのポイントが作品にも影響を及ぼすことになった、と。そのギアチェンジが、この作品の聞こえ方を大きく変化させることになったんだと思うな。
ー機材的にはなにかシステムの入れ替えがあったりということはありましたか?
ああ、そこは前作とがらっと変えたね。完全に違うセットアップやシステムを使った。『Ufabulum』は大きなミキシングコンソールを使って作っ たし、シンセサイザーも『CS-80』のほか、ハードウェアシンセを色々と使った。それらのハードウェアシンセを使うのが、あの作品の音楽を書いていた時 点では適している、僕にはそう思えたわけだ。ところが、このアルバム、『Damogen Furies』は、すべてをコンピューター上のソフトウェアセットアップで作った。全曲がこのソフトウェアシステムだけを使って作られているっていう。そ のソフトウェアは僕自身が作ったもので……そうだね、その初期ヴァージョン、一部はかれこれ10年以上前から取り組んできたものだけど、このソフトウェア のみを使って丸々1枚レコードを作ったのは今回が初になるんだ。だから、作品をモノにする技術的な方法という意味で2枚の間には大きな違いがあるわけ。だ けど、そうやって違いが生じたのもまた、『Damogen Furies』に集められたマテリアルというのは、去年僕が取り組んでいたもっと大きな音楽ピース群から引っ張ってきたものなんだよね。で、それらの音楽 作品群はもともと「ライブで演奏される音楽」って文脈の下に作られたものだったし、その要請に対応する形で、レコーディングに用いたテクニックもまた、 『Ufabulum』の時とは違い、よりライブの場に移し替えやすいものになった、と。というのも、このアルバムはライブをやるときとほぼ同じセットアッ プをスタジオの中に組んで、それでレコーディングしたからね。だから、これはどこでだって組める柔軟なセットアップということだし、それこそホテルの一室 でもどこでも、自分の持って行きたいところへ運搬が可能なシステムなんだよ。結局のところはコンピューターという「箱」に入ったソフトウェアなんだし、い くつものハードウェアシンセ群を移動させるのとは違う。だから多くの面で、異なる意匠の下に、異なるセットアップで作られたレコードってことになるね。
ー今回のアルバムについては、恐らく主にアグレッシブなアプローチがみられたためだと思いますが、「これぞスクエアプッシャーだ」というような評判も上がっています。
ああ、うんうん。
ーあなた自身は、自分に基本形や原点のようなものがあると思いますか?あるとすれば、それはどのような形なのでしょうか。
(即座に)それは、ないに越したことはないね!ってのも、そういった「これぞスクエアプッシャーのサウンド」みたいな概念ってのは、僕からすれば、 自分がもっとも苦手とする、音楽産業の持つひとつの性癖だ、という。それは、基本的にはそうやって複雑な面を持つひとりの人間、アーティストをある形や典 型へ、「ブランド」へと凝縮しようって話なわけでさ。で、そのブランドというのは数個のセンテンスで手っ取り早く説明がつくような、しかもそのアーティス トの代表的な数曲で代弁できるもの、と。そうした考え方というのは、僕にとっては生きていて変化していく人間に対してふさわしくない、そういうものに映 る。たとえば品物としての性質がある程度一定なもの、マーガリンだのピーナツバターといったスーパーマーケットの棚に並んでる「商品」になら当てはめても いい概念だろうけど、もっと複雑な「個人/人格」という存在にはふさわしくないよ。
で、そういった自らのブランド性だったり、あるいは「これが自分の典型的なサウンドだ」なんてことを真剣に受け止めているようなアーティストってのはみん な、ほんと、深刻な問題を抱えてると僕は思うね。というのも、それは人間という存在の持つ根源的な性向、すなわち発展や変化の逆をいくものだから。いや、 どちらかと言えば、僕たち人間に備わったキャラクタ―というのは「変化」であって、「静止状態」ではないってことかな。だから、たとえ僕たちがじっと変わ らずに静止状態を保とうとしたって、それは不可能なわけ。僕たちはいずれにせよ変化するんだし、刻々と歳をとっているのはもちろんのこと、自分の持つ考え にしたって、ほかからの影響を受けて日によって変わったりもする。で、僕からすれば、そうした様々な変化のプロセスと細かく波長を合わせながら活動するこ と、それがコンポーザーとしてのもっともヘルシーなあり方なんだよね。というわけで、なんらかの「これがスクエアプッシャーだ」みたいな概念、核になるス クエアプッシャーの原型みたいなものが存在するって考え方そのものが、今言ったようなこととは完全に相容れないものだ、と。 そうは言っても、まあ、仮に「クラシックなスクエアプッシャーのサウンド」ってものがあったとして、僕は最大限の努力を尽くしてそれを振り払おうとしてき たわけ。ただ、そうは言ってもやっぱり、僕にはそれを拭い去り切れてなかったんだろうね。僕自身はそういった「スクエアプッシャーらしいサウンド」みたい な考え方は大嫌いだし、そもそもそんなものが存在するとも信じちゃいないんだよ。ただ、人々ってのは……僕が思うもっともありがちなケースというのは、僕 のキャリアの初期に生じたスクエアプッシャーのイメージ、そのいくつかが「スクエアプッシャーらしさ」ってものと呼応している、そういうことなんじゃない かと。キャリアの始まりの頃にやっていたことやそこで生まれたアイデアが、ブランド、あるいはそれを定義する原型として受け止められるってことだね。
ただ、忘れてもらっちゃ困るんだけど、僕が最初のアルバムをリリースしたのは20歳のときとはいえ、その時点までで僕は既にソングライティングを10年間 やってきていたんだよ。要するに、アルバムデビュー以前の段階で僕はいくつもの変化をくぐってきたってことだし、1枚目のアルバムを作った頃にやっていた ことというのも、そうした自分の遂げていた変化の形のひとつ、その顕われに過ぎないっていう。もちろんそこには当時の僕が関心を抱いていた事柄が表されて いるわけだし、僕の作るレコードってのはそういうもので、その時々で自分にとって大切だと思える物事を代弁するものなんだ。ただ、たとえどこかの時点で自 分が関心を持っていたからといって、それらがその後も常に僕にとって重要な関心事であり続ける、そういうわけではいんだよ。いつかまたそれらが大事だと思 える時がくる、そこに戻っていくってこともあれば、また逆にすっかり放棄してしまい、二度とそれらについてケアしたり考えることもない、なんてこともあ る。だから、うん、「スクエアプッシャーらしさ」みたいな概念ってのは、ほんと、聴き手やジャーナリストたち、音楽評論家たちの思いつき次第だっていう。 ただし、それらの様々な概念に僕が共感できるかと言えば、それはまったくない。それらの概念と僕は繫がっちゃいないし、どうでもいい話だと思ってる。僕は ステレオタイプに沿って自分の人生を生きちゃいないからね