千葉一彦
千葉一彦(Photo: Kisa Toyoshima)
千葉一彦(Photo: Kisa Toyoshima)

岡本太郎の右腕、千葉一彦が語る「太陽の塔」と大芸術家の素顔

大阪万博の貴重な裏話と、くすりと笑える「岡本エピソード」を公開

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※本記事は、『Unlock The Real Japan』に2022年3月21日付けで掲載された『Tower records』の日本語版。

1970年に開催された『日本万国博覧会』(以降、『大阪万博』)において最大のシンボルとなったのが、芸術家の岡本太郎が制作した『太陽の塔』である。岡本は戦後間もない時期から縄文土器や沖縄および東北の伝統的な習俗、メキシコの壁画への関心を深め、高度経済成長期の日本における魂のありかを追い求めた。

高さ70メートルを誇る「太陽の塔」は岡本のそうした思想を象徴する作品であり、大阪万博が掲げた「人類の進歩と調和」というテーマに対する痛烈なアンチテーゼでもあった。

この『太陽の塔』を岡本とともに作り上げたのが、「テーマ館」のサブプロデューサーを務めた千葉一彦だ。千葉は日活の美術監督として『幕末太陽傳』(1957年)、『日本列島』(65年)、『八月の濡れた砂』(71年)などの映画作品を手がけた経歴を持つ。

万博においては岡本の右腕役を担い、2人がタッグを組んで作り上げた最高傑作が『太陽の塔』であり、その内部に作られた一大展示作品『生命の樹』だった。2018年には48年ぶりに『太陽の塔』の内部が公開され、それに合わせて『生命の樹』も修復された。

岡本とのエピソードを交えながら、大阪万博の貴重な裏話を千葉に語ってもらった。

―まずは「テーマ館」のサブプロデューサーを務めることになった経緯から聞かせてください。岡本太郎さんとはもともと面識がありましたか?

全くありませんでした。出会いのきっかけとなったのは、映画の美術監督たちなどで立ち上げた研究会でした。60年代にテレビで放映するために制作された映像作品、いわゆるテレビ映画が台頭したことで、映画館に来るお客さんが減り、映画の製作本数もどんどん減っていたのです。「このままじゃいずれ生計を立てられなくなる時が来るだろうから、今のうちに将来のことを考えておこうや」と、志ある仲間が数人集まって研究会を立ち上げました。

映画制作のかたわら、映画美術という特殊性を生かして店舗デザインや空間デザインの仕事を数多く手がけてきたものですから、何か新しい仕事もできるんじゃないかと思ってね。それで松竹、東宝、日活から美術監督が一人づつ、ほかにも映画美術の関係者が加わって、5、6人が集まりました。

「おい、大変なことになった。岡本先生からこんなものを託された」

―将来のことを考える映画美術の研究会ということですね。

ただね、集まってみると結局映画の話に終始したり、酒を飲んだだけだったりと、研究会そのものがなかなか実り多いものにならなかったですね(笑)。

そのメンバーの一人に、早くから映画の世界を離れて大手デパートの販促部長をしていた男が一人いました。デパートの周年記念で池袋駅前の広場にモニュメント(※)を建てようという企画が持ち上がって、「それならピカソと並ぶ世界的芸術家、岡本太郎先生がいい」と提案して、彼の会社では完成までの全プロセスをフォローしてもらっていたのです。

※1962年に製作された高さ16メートルのクリスマス・モニュメント。『メリーポール』と名付けられた。

その男が、ある日「おい、大変なことになった。岡本先生からこんなものを託された」と駆け込んで来た。それが後に『テーマ展示の原典』といわれる、岡本先生が直筆した原稿用紙10枚程の『万博構想』だったのです。

岡本先生はその頃、メキシコのホテルからロビーに飾る壁画を頼まれていて、現地調査に行かなければならなかった。その出発前に「何かヒントになるような思い付きがあったら考えておいてくれ」と私たちに託されたわけです。

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大芸術家とのファーストコンタクト

―その原稿用紙にはどんなことが書いてあったのでしょうか。

中心になる広場に5本の塔を建てる。これは「五大洲を意味するんだ」と。その上には(万博のシンボルとなる建造物をデザインした建築家の)丹下健三先生が作る大屋根がある。そこを5本の柱を使って階段やエレベーターで登る。そういうことが書かれていました。

自分がそれまで関わっていた映画の世界とはあまりに違うものですから、何をどうすればいいのか最初は分からなかった。でも、研究会としてのテーマのようなものが見つかったので、「とにかくやってみようじゃないか」ということで始まったのです。

岡本先生にしたら、ヒントを求めただけで私たちに仕事を頼んだわけではないから、私たちが何者かがよく分からないですよね。なので、「ここまでやりました」とプレゼンテーションだけして、そこでおしまいにしようということになりました。

―そして、メキシコから帰ってきた岡本さんにプレゼンテーションをしたと。

「今夜時間が取れそうだから」と連絡を頂いて、初めて岡本先生のアトリエに行ったんです。5、6人で待っていたら「銀座で飲んでるから1時間ほど遅れる」と。しばらくして帰って来たら、今度はみんなの前にどかんと座って「君たちは一体何だね」と言いました(笑)。

―酔っぱらっていた?

そうでしょうね。「私たちなりに勝手にまとめてみました」とプレゼンテーションを始めました。1時間近くかかったと思います。その間先生はかぁーっと寝ているわけですよ(笑)。聞いているのか、いないのか分からない。「ということで…」と終わりにしたところ、ぱっと目を見開いて「何を言っているのかさっぱり分からん」と一言。

「何を言っているか分からないけど、無償の協力をしてくれたようで、それはありがとう。僕は寝るから」と寝てしまったんです。それが芸術家、岡本太郎先生との最初の出会いでした。

とっさに口に出た返事

―万博については、てっきりそこで終わったものだと千葉さんたちも思っていた。

みんなそう思っていました。「やれやれ、ひと区切りついたね」と、みんな万博のことはすっかり頭から抜けてしまって、次の研究テーマは何にしようかなどと話していたのです。

そんな頃、先生のアトリエから「ちょっと先生が話したいことがあるので、皆さんで来てくれないか」と連絡がありました。「来てくれないか」と言われてもプレゼンテーションから1カ月以上たっていたので、ある者は次の映画制作に取りかかってるし、別の者は辞退してしまって、結局残ったのは私と東京映画(映画制作プロダクション)の小野友滋の2人だけでした。

2人で岡本先生の下を訪れると、先生は丁重に頭を下げて「君たちのやってくれたことにとても感謝している。今度、テーマ展示プロデューサーを引き受けたんだが、協力してくれるか」と言うのです。私はとっさに「私と小野の2人だけでもよろしければ、喜んでお手伝いさせて頂きます」とすらすら答えてしまった。「プレゼンテーションした夜、先生は眠ってなどいなかったんだ!」。そんなことを思った万博参加の瞬間でした。

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「おい千葉、お前はやせてひょろひょろしてるから塔がいいや」

​​―では、「テーマ館のサブプロデューサーをやってくれ」という具体的なオファーではなかったわけですね。とりあえず手伝ってくれないかという。

はい。先生の構想の中にはテーマ館の地上部分と地下の部分、それから丹下先生が作っている空中という3つのゾーンがあって、それぞれの担当者を決めようという話になった。「地下はとにかく重いやつがいい」。ドスンとした人だったら、作家の小松左京がいいんじゃないか。建築評論家の川添登先生は小柄でやせていて、体も軽いだろうから空中をやってもらおうと。

―体型で決まったわけですか(笑)。

そうそう。先生からは、よくフランス仕込みのエスプリやジョークが飛び出しました。太陽の塔は誰にやらせよう。という時に「おい千葉、お前はやせてひょろひょろしてるから塔がいいや」なんて言うんです。そうやって体型から決まっていったのです(笑)。

役割が決まって最初のうちは、各々が時間を割いて一生懸命やっていました。だけど、小松左京さんも有名人、川添先生もその当時は日本で数少ない建築評論家で、とても忙しい。

なかなか会議に出られないのに、開幕が近づくにつれて、10日おきの会議が週1回になり、1日おきになる。(私は)毎日のように出席していたので、川添先生や小松さんがやるはずだった仕事の領域を結局は引き受けることに。会議に最後まで残ったのは、岡本先生と私の2人だけでした(笑)。

人類の叡智を超えるアメーバ

―1970年の万博の際は「人類の進歩と調和」というテーマが掲げられていましたが、当初からこのテーマに対する反発は岡本さんの中にあったのでしょうか。

あったんじゃないでしょうかね。先生は縄文土器に美を見出だしていたし、根源的なものに対する意識を強く持っていました。「人類の進歩と調和」というテーマに対しても「人類は何も進歩してない、何が進歩だ!」とよく言っていたのを覚えています。「原生動物のアメーバを見てみろ。自由に動き回ってのびのびと生きて暮らしてるじゃないか」と。

―そうした思想が形になったのが『太陽の塔』であり、塔の内部に作られた『生命の樹』だったわけですね。

はい。原生動物の時代からは虫類の時代、恐竜の時代、類人猿の時代を経て、ここまで来た人間には叡智があったが、「それを上回るのはアメーバだよ」という話は、常にしていましたね。それを立体的に展示したいというのは、ずっと頭の中にあったのでしょう。

ただ「アメーバから始まる進化の過程を立体的に構成して、お客さんをその中に通す」と言われてもさっぱり分からないですよね。きっと、先生の頭の中にははっきりしたものがあったのでしょうけれど(笑)。

―それをどうやって形にしていったのですか。

先生が200号のキャンバスに描いた『生命の樹』の原画がありました。会議のたびに出してきて、一生懸命説明してくれるのですが、スタッフには訳が分からない。会議を何度やっても話が進みませんでした。

何か良い方法はないだろうかと思って、「先生、例えばこんな感じでしょうか」と全体の空間イメージが掴めるように描いた私流の説明絵図を見せたんです。そうしたら「そうそう、これだ」と。

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岡本太郎が見せた人としての素顔

―つまり、千葉さんが岡本さんの世界を翻訳してスタッフに伝えた。

映画美術の仕事ってそういうものでしたから。映画監督の演出意図や原作、シナリオなどに盛られた抽象的なアイデアを具体化するという作業をずっとやってきたし、明日までにセットの図面を書き上げないと駄目という表現力や機動性が求められる仕事です。その結果、会議は毎回私の図面を元にやるようになりました。

私自身はその当時の「岡本大芸術家」の何たるかをそれほど知らなかったんですよ。怖いもの知らずで、だからこそ対等にいろいろなコミュニケーションが取れた。

また、先生の性格も大きかったですね。岡本太郎というと「芸術は爆発だ」とか「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」などの名台詞をイメージする人が多いと思いますが、実際の先生は、激しい芸術作品とは裏腹に、穏やかで非常に神経が細やかな、優しい人でした。早くに父を亡くした私に対して、まるで親のように行儀、作法を教えてくれたことも一度や二度ではありません。

―岡本さんとの会話の中でどんなことが印象に残っていますか?

ある日会議が終わった後、「千葉、ちょっと来い」と言うんです。「お前は話してると、すぐ『あのー』と言うだろ。あれ、やめろ。『あのー』の代わりに『そのー』と言え」と言うわけです。「あのー」というのは何を言ったらいいのか分からない状態に思われる。「そのー」と言うといくつかの案があって、どの話をすればいいか選んでいるように聞こえるそうです。

一方で、先生の描いたものを平気な顔で私が修正したりもしました。勝手に修正してるわけではなく、建築の設計者と打ち合わせをしていて「先生の描いたものが構造状都合が悪い」と指摘されたからです。

設計の人は「大芸術家が描いたものを勝手に直すわけにもいかない」と考えていたところ、私が勝手に直してしまうわけです。「先生、ここ曲げたほうがいいんじゃないですか?」と言えば、「そうだな、そうしよう」と返ってきます。太陽の塔ができるまで、私にとって先生は仲間でもあったし、良き父親でもあったんです。

『太陽の塔』は5つあった

―『太陽の塔』が建造されて52年の月日が経過しました。今、振り返ってみると『太陽の塔』はどのような存在だったと思われますか。

今にして思えば『太陽の塔』は5本あるんじゃないかという気がしています。1本は先生の芸術活動の絶頂期を象徴する作品としての『太陽の塔』。もう1本は、私や工事関係者など直接あの塔を仕上げた裏方たちの誇りと名誉が詰まった『太陽の塔』。

太陽の塔がある場所はもともと「お祭り広場」といわれていました。しかし、先生は「お祭りじゃなくて祭りだ」と言っていたのです。「お祭り」というと酒を飲んで馬鹿騒ぎするものと思われるかもしれないけど、「祭り」はもっと神聖なものだと。

先生が言う「神聖な万国博」という祭りの中心部に鎮座する神の像としての『太陽の塔』があるのではないかと思います。それが3本目です。

それから、『大阪万博』は(入場者数)6400万人という万博史上最多の人が訪れたのですが、この人たちは必ず『太陽の塔』を見ている。この6400万人それぞれの心の中に残っている『太陽の塔』が4本目です。そして、5本目が今も万博記念公園に立っている『太陽の塔』。これは、「ここに万国博ありき」という、万博の生き証人としての『太陽の塔』なのではないかかと思っています。

―2025年に再び大阪で万博が行われます。千葉さんはどんなことを期待されていますか。

今までの万博は科学技術礼賛、「ここまで技術が進歩したんだよ」という各国の自慢の品を並べて、技術の成果を誇るという傾向が強かったような気がします。あるいは「会場跡地は超高層マンションを林立させて、収入がこれぐらいになれば元を取れる」とか、そういう経済優先の話が先行してしまう。

せっかく海の上に作るのであれば「今、海と人間がどのように対峙しているのか」といった大きなテーマを表現するような会場作りのやり方があるんじゃないかと思いますね。

例えば、津波が来るとすぐに湾岸道路がどうこうという話が出るのですが、理想的な湾岸道路とはどういう構造で、これからどうしていかなければいけないのかを提示する。会場に入ったら、内部にもう一つ海があって、そこで新しい漁業の問題が提案されているとかね。

国同士が展示物、あるいは科学技術を自慢げに競争し合うのではなく、人類共通の課題に取り組むべきでしょう。健康と病の問題、生と死、愛と憎しみ、人間そのものに肉薄したようなテーマであったらいいなと思います。

千葉一彦

「テーマ館」サブプロデューサー

映画製作、配給会社日活の元美術監督。担当した作品は『幕末太陽傳』(1957年)、『青春の鐘』(1969年)など多数。『太陽の塔』(2018年)には出演もしている。1970年に開催された『日本万国博覧会』で、岡本太郎がプロデュースした「テーマ館」のサブプロデューサーに抜擢。『太陽の塔』制作に携わった。

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