日比谷の交差点に立つと、南の方角は江戸以前には入り江、海であった。日比谷からいまの海岸のあるところ、たとえば浜離宮までは道路とビルが建ち並ぶが、大方が川や海を造成した「埋め立て地」である。とは言っても、江戸以前の海岸付近は、全体が非常に凹凸(凸が後に説明する台地なのだが)の多い土地で、日比谷通りの先に東京都23区内の最高峰、愛宕山(たかだか標高25.7mではあるが)があったりして、ずいぶんと海岸線は入り組んでいた。そこで小高いところ(凸)を削り、あるいは江戸城のお壕を掘った土を使って、低いところ(凹)を埋めて均すという、江戸という人工都市ならではの大公共事業が行われた。それによって、日比谷、丸の内から八重洲、日本橋、京橋、新橋、築地が出来上がったのだ。
現在では「水」の無いところにも、地名に「谷」、「(中)州」、「橋」という地名があったりするのはその為である。生鮮食材の市場で有名な「築地」とはもちろん、埋め立て地の意味である。
1657年の明暦の大火以降、もっと広々とした安全で活力のある江戸が再構想され、川の流れの改修と海の埋め立てを行い、隅田川の東、いまの「江東」区の深川辺りまで、江戸は市街地を拡張した。東京になってもその人工都市としての地勢の基本は変わらない。だから今も東京が拡大していく際には、臨海副都心とオリンピック施設が、江東区の埋め立て地に再び構想されているわけだ。