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さて論理的な誤解は解けたが、それでも怒りがくすぶるのはなぜか。ニューヨークのsushiが鮨でないことは当たり前なのに、なぜ、そんなことに私は不満を持ったのか。そこには、日本文化の閉鎖性と文化アイデンティティ、という大きな問題がある。
サッカーはイングランドで確立し、世界に広がっている。しかしイングランドは長らくワールドカップで優勝していない。さらに、南米や、宿敵スペインのスタイルに、サッカーというスポーツの神髄があるように言われたりする。イギリス人はどんな気分なのか。おそらく、イングランドの「文化アイデンティティ」は少々侵され、「なぜイングランドのサッカーは勝てないのか」、といった話題も英国では盛んなのだろう。しかし同時に、どこかで「われわれが源流なのだよ」と進化上の位置を確認して、ささやかな優越感で心を静めてもいるはずだ。
私に足りなかったのは、そうしたイギリス人の、手慣れた偽善であった。ニューヨークの「米飯(rice)に魚片のようなものを乗せた固形食」に腹を立てる必要はなかった。むしろ、「ここまで進化は来たか、あの日本原産種の鮨が」と、その発展を喜ぶべきだった。あそこでゆったりと現状を認める大人ぶりを、偽善でも発揮できなかったのは、いわゆる日本列島の文化の閉鎖性があるのかもしれない。イギリスだって島国で、ヨーロッパからは離れた島国なのだが、外に出ていく歴史が日本より数百年早かったので、サンドイッチもサッカーも早くから世界に進化していって、そうしたことに慣れている。
もちろん日本文化が外に出ていくことはこれまでにもあった。しかし、それはエキゾチックなもの、変わったものとしてであった。鮨も同じく珍奇なものであったのが、あるときからsushiに変化した。柔道がjudoになったように。これからはそうした日本文化が変化しながら外の世界で受け入れられることが多くなるかもしれない。その時も、「これは鮨ではない」、「柔道は一本勝ちが正統だ」といった文化的アイデンティティから来る憤懣をまきちらすより、源流であることを名誉とし、自分たちも餃子タコスやおにぎりバーガーを食べ、「日本式サッカー」の完成を夢見ているのを鑑みれば、差し引きプラス、と考えるのがよい。